「複製(コピー)技術が発達した現代では、
芸術作品の持つアウラ(オーラ)は失われる」
「アウラの消滅」という言葉を、昔どこかで聞いたことがあった。
ヴァルター・ベンヤミンというドイツの学者の唱えた説だそうだ。
「この世にただ一つのオリジナル作品」から、無数に複製されたコピーへ。
芸術が大衆化する時代の到来。
きちんと本を読んでいないのだが、そんな内容らしい。
ところが、最近では「著作権」という考え方が、以前より厳しくなり、
「簡単にオリジナルをコピーできる技術」の乱用にストップをかけている。
(ブログやネットの写真にも、自然発生的に著作権が生まれる。
「コピーライト©名前、制作年」の形式的な表記がなくても、
日本を含む多くの国々では、それらの著作権が保護される)
「オリジナル」を無断でコピーし、商売してはいけない。
乱獲の果て、人類は消滅しそうな「アウラの保護」に至ったのだろうか。
「アウラの消滅」という言葉で私が思い出すのは、
ドイツの作家ミヒャエル・エンデのファンタジー「モモ」だ。
時間泥棒がプレゼントしてくれようとする、
等身大の着せ替え人形「完全無欠なビビ・ガール」を、
主人公の女の子モモは、「いらない」ときっぱり断る。
美しい着替えがたくさんそろい、「ビビ・ボーイ」という別バージョンもあり、
自動的におしゃべりもする高価でかわいい「ビビ・ガール」。
けれど、天真爛漫な少女モモにとっては、「退屈なお人形」なのだ。
「いっそ黙っていてくれたら、わたしが楽しいお話をたくさん続けられるのに」
とモモは思う。想像の余地がなくて、つまらない、と。
微妙な別バージョンを次々ほしくさせる、そんな商業主義的な玩具を、
モモは「いらない」と否定する。モモは何も持たないけれど、
想像したり、黙って人の話に耳を傾けることが出来る。
そして、そのような存在であるだけで、自分もまわりも幸せにする力を持っている。
アウラは、モモ自身に宿っている。
凍てついた「時間の花」を解き放つ不思議な巫女として、
作家エンデの筆は、美しい浮浪児「モモ」を描き出す。
「一般の国民には理解されない」「専門的なデザイン」「展開力」など
さまざまなプレゼンテーションの言葉を散りばめた
「2020東京オリンピック・エンブレム」は、プレゼントする側から
ふいにひっこめられた。
「アウラ消滅」時代に生まれたロゴは、
多くの人々に「アウラの輝き」を感じさせることなく、
「アウラは保護されるべき絶滅危惧種」であるとし、
人々の眼前で不吉な一瞬の流星のように、堕ちていった。
けれども……どうなのだろう?
ベンヤミンは、これほど多くの人が自由に発信する
インターネットの時代を予感できていただろうか?
アウラは、利権や権威主義のオリの中では消滅するが、
自由に見聞きし、描き、奏で、発信する
多くのユーザーの野では、
曙光のオーロラを放っているのではなかろうか。
個々人の胸の内、咲いては散り、またもっと美しく咲くという
モモが見つけた「時間の花」のように。
あまり明るい話題のない世相ではあるけれども、
21世紀のアートの新しい舞台が胎動しているのかもしれない。
秋の訪れに、ふとそんなことを思った。