(1)
あわい宵闇がおりて、木立ちにかざられた提灯や、参道にならぶ屋台に、だいだい色のあかりがともりはじめた。夕ぐれの風は、ほんのすこし涼しい。
「ユズメさんのお宮は、オモカゲ山では、いちばん大きいんだ。毎年の夏祭りも、こうしてたくさんのお客さんでにぎわう」
ウチワを手にしたシノブくんが、のんびりと、となりを歩く。
「イスルギさん、ワタアメはどう? 金魚すくいは?」
よくわからず、ぼんやりしていると、シノブくんはニコニコしながら言葉をかさねた。
「心配しないで。お祓いやら何やらで、お務めしてるから、ぼくだってちゃんとお金をもってるよ。木の葉のではなく」
……お金? 木の葉?
参道の人々は大人も子どももみんな、はれやかな顔で
「こんばんは」
と、あいさつをかわしあっている。
「あ、シノブさん」
すれちがう人に声をかけられることもしばしばで、そのたびシノブくんは、ていねいにあいさつを返す。
「ほら、いちおうぼくも御近所づきあいしてるから……そうじとか草むしりとか、ユズメさんの宮のお祭りの準備とか」
そんなシノブくんのかたわらを歩くわたしに、おや、と目を向ける人もいた。
「かわいいお連れさんですね」
わたしはあわててペコンとおじぎをする。シノブくんは、ただにっこりとうなずく。笛や太鼓の祭りばやしが、境内からかろやかに流れてくる。
「ユズメの宮」の鳥居をくぐると、草で編まれたおおきな輪が、まるで緑の門のように立っていた。
「これは『茅の輪』といって、魔除けの力があるといわれてる」
シノブくんが、いつものように教えてくれた。
「チガヤという草の生命力にあやかって、チガヤで編んだ輪をくぐることで、厄をはらい、無病息災をいのるんだ……
『茅の輪くぐり』は、古くからつたわる夏の行事だよ」
ウチワをゆらしながら歩くシノブくんに、わたしはついていく。
「あの輪を準備するの、毎年たいへんなんだよ。ぼくも手伝ってるけど」
茅の輪くぐりの順番をまつ人たちの列にならぶと、白い装束をつけた案内係の人から、ちいさなビンをわたされた。
その白い陶器のビンに、ひとくきの緑の葉がさされ、その葉には白い紙かざりが結ばれていた。
「紙垂(シデ)をかざったチガヤの葉だよ。息をふきかけてごらん」
シノブくんにうながされ、そっと息をふきかけると、葉の先にふわりと、黄緑のちいさな光が流れてきて、とまった。
「あ、ホタル……」
思わずつぶやくと、シノブくんがわたしの手元をのぞきこみ、首をかしげた。
「黒沼から飛んできたのかな」
「ほ ほ ほたるこい
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
ほ ほ ほたるこい
ちいさなちょうちん さげてこい
星の数ほど とんでこい
ほ ほ ほたるこい」
シノブくんのくちずさむ歌がきこえているのか、チガヤの葉先で、ホタルはしずかに光る。
やがて、わたし達が茅の輪をくぐる順番が、めぐってきた。
「最初に一礼してから、左まわりに一回、つぎに右まわりに一回、さいごに左まわりに一回……ひとつの輪を三回くぐってください」
案内係さんに教えられ、緑の門のような大きな茅の輪に、頭をさげた。
「あ……」
手にしたチガヤから黄緑の光が、ふわり、とはなれた。わたしは、すいよせられるように、その光を追った。
「イスルギさん」
シノブくんの声が、背後の宵闇にのみこまれ、ふいに遠くなった。見えているのは、消えたり点ったり、ゆっくりただようホタルの光だけ……
わたしは、茅の輪をくぐった。
左まわりに一回……
(2)
ここは、どこだろう?
いちめんの霧の中に、わたしは浮かんでいた。
一本の虹が、霧にかかる橋のように、七色の光をにじませていた。
虹は、一匹の大蛇だった。
大蛇は、七色の身をくゆらせ、白い霧にもぐってはねたり、尾をくわえて輪になったりした。
はるか下、霧の底に、島影がしずんでいた。
その島影の頂きに、大きなまるい石があり、その石が割れて、ひとすじの光がすべり出た。
光は、ジグザグのすじを引き、霧の中をのぼってきた。その光は、無数の足をもつ大ムカデだった。
大ムカデは、いきなり大蛇にくらいついた。するどい閃光が、虹をかすませるように。
大ムカデと大蛇は、たがいにかみあい、からみあい、二重の輪となって、霧の中でぐるぐる回転した。
あたりが暗くなった。
回転する輪は、黒い円ばん……光のない太陽だった。
黒い円ばんのふちからこぼれる光の輪は、金の大蛇だった。
黒い円ばんから放たれる光の矢は、銀の大ムカデの百千の足だった。
二匹の怪物は、どちらも光、どちらも闇で、からみあう二重の輪から、ゆっくりとかがやく太陽が姿をあらわした。
光がさして霧がはれると、下界は、みわたすかぎり静かな水面だった。
鏡のように凪いだ水は、海ではなく湖だろうか。その湖のまんなかに、ぽっかりと、あの島影が浮かんでいた。
……と、みるまに空は黒雲でくもり、雨をよぶ大蛇、稲妻となって空をはう大ムカデとが、嵐の中ではげしくぶつかりあった。
雨が滝となってそそぎ、うねる大蛇の渦、走る大ムカデの波で、湖は荒れくるった。
もつれあう二匹が、稲光の剣となって湖を打つと、すさまじい音がして、太い水柱がたちのぼった。それは、二匹の怪物が、湖の底の大地を切りさき、水の道がひらかれたしるしだった。
湖の水は、ほとばしる河となってあふれ流れ、あとには広々とした大地と、大地にうかぶ島影のようなオモカゲ山がしずかにのこった。
風をまとい、ふわりと浮かんだわたしは、オモカゲ山に近づいた。
山肌に湧きだす、太古の湖のなごりの清水……黒沼のほとりで、二匹の怪物は、まだ戦いつづけていた。
白い大蛇と黒光りする大ムカデとが、ぐるぐるとたがいにかみあい、からみあって円を描き、やがてそのまま骨になった。
その骨は、チロチロと燃え始め、青白い炎の輪となって、空中に浮かび、いつまでも消えることがない。
いつしかオモカゲ山には緑がしたたり、鳥がさえずり獣がかけまわり、黒沼はしずかに水をたたえ……
青白い幻のように燃えつづける輪を、すうっとくぐり抜けていくのは、一匹のちいさなホタル……
「あ……まって」
わたしは、こわい夢からさめたように、ホタルの光をおいかけ、二匹の怪物の骨から生まれた、その青白い炎の輪をくぐった。
右まわりに一回……
(3)
月明りの中、かすかに祭りばやしが流れてくる。
わたしは、チガヤをさした白いビンを手に、ぼんやり立っていた。
「ここは……黒沼?」
足元に、ひたひたと水音がよせる。
夜目にも黒々と、木立ちにかこまれ静まる水面は、ミナコちゃんと大ムカデに追われた、あのときの場所だった。
「アズキとぎましょか、ショリショリ……」
ふしぎな歌声がただよい、あたりに目をこらすと、銀色の髪の女の人が、水辺にかがみこんでいた。大きなザルを、黒沼の水にひたして、ざくざくとなにか洗っている。
「ユズメさん?」
そっと声をかけると、その人がふりむいた。
「あ、すみません……人ちがいでした」
白い着物、銀の長い髪をたばねた女の人は、ユズメさんよりもずっと年とった、おばあさんだった。
「おや、めずらしい……お客さんかい。そういえば今夜は、夏越しの大祓いだね」
銀の髪のおばあさんは、わたしをながめ、手の中のチガヤの葉を指さした。
「それは、お前さんの身がわりに厄をすいとってくれる……大きな命の、ちいさな器だよ」
なぞかけのようにつぶやき、おばあさんはまた、ざくざくとザルの中をかきまわし始めた。
「アズキとぎましょか、ショリショリ……」
歌の調子にあわせ、ザルの中がうずまき、水の輪が生まれては消える。
いく匹ものホタルが、光の尾をにじませ、音もなく飛んだ。
やがて、おばあさんは、ザルを沼から持ちあげた。ザーッと水がこぼれ落ち、赤や黒の豆つぶが、ザルの中で月明りに照らされた。
「よく洗ったら、見分けやすくなった……さて。 どちらにしましょうか、天の神さまのいうとおり、赤豆、黒豆、さんど豆」
そう歌いながら、おばあさんは、赤い豆を一つぶ、地面にポトリとなげた。
するとそこから、先がほんのり赤い、新しい芽がのびてきた。
次に、おばあさんは、黒い豆を一つぶ、黒沼にポチャリとなげた。
するとさざ波がたち、水の輪のまん中に、いっそうの笹舟がうかんだ。ちいさな笹舟には、人型に切りぬかれた、白い紙人形がのっていた。
「なにをしているんですか?」
ふしぎに思いたずねると、おばあさんは、またなぞかけのように歌った。
「赤い豆つぶ、大地の命に帰りゃんせ。
黒い豆つぶ、夜空の星に帰りゃんせ」
紙人形をのせた笹舟が、沼のまるい月影にすうっとすいこまれるように、しずんでいく。
笹舟をのみこんだ水輪が、銀色にかがやき、ふるえながら広がって、闇にうかんだ。
まるで天空と呼びあう水の、幻の月のようだ。
黄緑のちいさな光が、目の前をよぎり、そのふるえる銀の月影にとびこんだ。
「あ、ホタルさん……」
わたしは、銀の月影をくぐった。
左まわりに、一回……
(4)
パシャリ、と水しぶきがはねあがった。
わたしは、黒々と流れる川の浅瀬に、チガヤのビンをにぎりしめ立っていた。氷のようにつめたい水が、ひざをぬらしている。
見上げると夜空いちめんの星、そのはざまにぼんやり白く、天の河がよこたわっていた。
足をぬらす水がつめたくて、わたしはふるえながら、ひざまでの水をザブザブわけ、流れにさからい歩いた。
岸辺にたどりつくと、ふりかえり、ゆったりと星空をうつす川の流れを見つめた。
すると、暗い水面を、ぽうっと光ってすべるものがある。
「あれは……?」
目をこらすと、ほの白く光るのは、笹舟にのった紙人形だった。
紙人形をのせた笹舟が、波にゆられ、ひとつ通りすぎると、またひとつ。
青白いほの明かりが、どこまでいくのか。ちいさな笹舟が、暗い川面にゆらゆら、ゆらゆら……。
わたしは、つめたくぬれた足で、河原を歩いた。音もなく流れる天の河の下、あてもなくただ歩いた。
いつしか遠く、明かりが見えてきた。
暗闇に、炎が燃えていた。
その炎のまわりだけが、ぼんやりと明るい。足元には、うす紫の野の花が咲きみだれていた。
花の中に点々と、にぶい銀色のゴツゴツした岩があり、ひときわ大きな岩を、ひとりの若者がツチとノミとでけずっていた。
クシの歯のようなトゲが左右にびっしりのびている、ねじれた塔……そんなふしぎな形を、若者は、自分の背よりも高い銀色の大岩に、ツチとノミとで彫りだそうとしていた。
若者のさかだった髪は赤く、その目は炎をやどし輝いていた。
わたしが近づくと、銀の岩から目をはなさずツチとノミをふるいながら、若者はつぶやいた。
「どこから迷いこんできたのか、やっかいなことだ」
「あの……」
「ここは、お前には、まだ用がない場所だ。さっさと帰れ」
わたしには目もくれず、若者は大岩をけずりつづける。ツチとノミがふるわれるたび、銀の粉がちる。
「といっても、帰り道もわからんか」
「あの……ここはどこですか?」
「忘れ川のほとりだ」
若者は、わたしをジロリとにらんだ。
「お前……どこかで会ったことがあるか?
現し世のチガヤの葉をもっているな……」
まなざしがゆらぎ、若者は、片目をおさえてうずくまった。
「だいじょうぶですか」
「しばらく前から、この目がうずく……にがい夢を見てからずっとだ」
うずくまった若者の胸には、細かなトゲがびっしりはえた巻き貝の首かざりが、つるされていた。
「おなじ形……」
首かざりの巻き貝と、彫りかけの銀の大岩とを、わたしが見くらべていると、若者はうすく笑った。
「ホネガイ……おれがここで彫りつづけているのは、墓標だ」
「なんだか……きれいな形」
つぶやくと、若者はあきれたように言った。
「お前、かわった奴だな。こわくないのか、忘れ川の水は、飲めばすべてを忘れさせる。ここは冥府のほとりだというのに」
うす紫の花の野にたたずむ銀の大岩、ホネガイの……それは、だれの墓標だろうか。
「忘れ川……こわい……?」
わたしは首をかしげた。もともと何もおぼえていないまま、オモカゲ山でくらす身なのだ。ぼんやり考えていると、若者が言葉をかさねた。
「この川の果ては、星の海に流れこむ。現し世を去る者は、とおく天の河まで旅をする。
あるいは、また現し世にもどりたければ、この炎で身をきよめ、新しく生きなおせばいい。
星の海か、現し世か……どちらの道も選べない者は、この野で花となり、現し世への涙を流しつづける」
「お前はどうする……ここにとどまるか?」
若者が、炎をやどした瞳で、わたしをにらんだ。
「好きに選べ」
そのとき、うす紫の花のむれをゆらして、風がふいた。
(5)
わらべ歌をかなでる横笛の音が、どこからかひびいてきた。
「ほ ほ ほたるこい
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
ほ ほ ほたるこい」
「……シノブくん?」
わたしの胸いっぱいにオモカゲ山の景色がひろがった。
「あいつ……あいつか。
あれは、にがい夢だった。剣でつらぬかれたように、この目がまだ、いたむ」
若者は、また片目をおさえた。
「あの……あなたの名は?」
「クラマ……と、昔だれかが、おれを呼んでいたな」
「ちいさなちょうちん さげてこい
星の数ほど とんでこい
ほ ほ ほたるこい」
笛の音が、やさしくひびく。
黄緑の光をともしたホタルが、ふわりとチガヤの葉をめぐり、燃える炎の方へと、光の尾をひき飛んでいった。
「あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ」
「シノブくん!」
笛の音のひびく方へと、わたしはかけ出した。まばゆい炎にかけより、強い光と熱とを体じゅうに感じながら、いっきにかがり火を飛びこえた。
手にしたチガヤの葉が、白いビンの中で金色にかがやき、ゆらゆらと燃えていく。
炎のむこうに、緑の茅の輪が、しずかに立っていた。
「イスルギさん!」
わたしを呼ぶ声とともに、あたたかな腕がのびてきた。
わたしは、茅の輪の門をふみこえた。
「やっと見つけた」
わたしの手をしっかりつかんだシノブくんが、大きな声で言った。
「心配したよ、どこへ行っていたの、イスルギさん!」
祭りばやしは、とっくに止んでいた。
わたしはシノブくんと手をつなぎ、「ユズメの宮」にたたずんでいた。
屋台やちょうちんも片づけられ、人影のない夜の境内は、とてもしずかだ。
闇に口をひらいた茅の輪だけが、祭りのなごりをとどめていた。
「イスルギさんが見つかって、よかったわ」
白い着物に赤いはかまの巫女姿のユズメさんが、ほっとした顔で声をかけてくれた。
「あら?」
ユズメさんが、わたしが手にした陶器のビンを見つめた。
「ムラサキツユクサ、かしら」
白い陶器にゆれているのは、緑のチガヤの葉ではなく、一輪のうす紫の花だった。
ホタルが、その花の細い葉にとまって、消えたり点ったりした。
「ツユクサは、ホタルグサともいうの……でも、こんなにきれいなムラサキツユクサは、ここらではあまり見ない、めずらしいわ」
銀のホネガイの墓標が立つ、うす紫の花の野……
「ムラサキツユクサの花言葉は、たしか……いっしょにいたい、ひとときの幸せ、さびしい思い出……だったかしら」
ユズメさんがつぶやいた。
( ―ホタルこい― 2013.8.11・2015.2.19 加筆 ) ©Tomoe Nakamura 2013
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