(1)
ごうごうとうなる風が、体をおしながす。耳がちぎれそうなほど、つめたい天の風だ。矢のようにはしる星くずたちにまじり、わたしは、ひとすじの流れ星となって、地にふりそそいだ。
めざめると、暗い穴の中だった。
しめったコケのにおいで、鼻がむずむずする。くしゃん、とくしゃみをして、頭をひとふりすると、体がぬれていることに気づいた。
どうやらわたしは、まっさかさまに落ちたいきおいで、しっかりと土に穴をあけ、地面にもぐってしまったらしい。
井戸のそこからよじのぼるように、もがきながら、地上に顔をだした。くもった空から、かぞえきれない水のつぶが、わたしに落ちてくる。
ここは、どこだろう?
さむい……
空をみあげたわたしの目、そのかたほうに、ポトンとひとつぶ、しずくが入った。
そのしずくは、しんじゅ色のまくで、わたしに見える世界をふさいだ。ツンとすんだ、でもやわらかないたみが、体をながれた。
「ハ・ナ・ニ……」
え?
「ハナニ、アイタイ」
わたしのではない小さな声が、むねのおくでささやいた。
「ウ・タ・ゲ・ニ……」
はっとして、むねをおさえると、また小さな声がした。
「ウタゲニ、イッテミタイ」
「きみ、だれ?」
たずねて耳をすますと、ふりしきる水の音にまじって、その小さな声はこたえた。
「シガツノ……アメ」
四月の雨。
まぶたのおくに、しんじゅ色のまくがすいこまれ、ふいに世界は色をとりもどした。ツンとつめたい、やわらかな色だ。
「ハナにあうため、ウタゲにいきたい?」
とほうにくれた。
わたしには、なんのあてもなかった。ちょっとぼんやりしてから、あてはなくても、でかけてみることにした。
雨にうたれ、ゆっくりと、わたしは歩きだした。
あたまのてっぺんから、ゆびのさきまで、しずくがポタポタすべりおちていく。
森の木々は、やっぱりてっぺんから枝のさきまで雨にぬれながら、とてもしずかに立っている。
ほんとうに、ここはどこだろう?
草むらで、クモがしずかに、じぶんの巣にいる。
雨つぶをちりばめた、うずまきもようの巣の上に。
葉かげのクモの巣で、きらきらふるえる雨つぶが、なんだか → というかたちに、うきあがって見えた。
ぬかるんだ小道のわきの草むらには、あちらにもクモの巣、こちらにもクモの巣。
ひとつずつのクモの巣に、それぞれ雨つぶのえがく → が、まるで道あんないでもするように、ゆれて光る。
いったいどこまでつづくのだろう。
たどった先のクモの巣にうかぶ、雨つぶのかたちは、小道をはずれた森のおくをしめす、やじるしだった。
くらくて、みしらぬ森。
でも、もともとわたしは、まいごだった。
しっている場所なんて、どこにもない。
「アイタイ……」
むねのおく、またあの声がきこえた。
わたしのではない……でも、わたしのなかの声。
雨の道を、わたしは森のおくへと歩きつづけた。シダの葉かげのクモの巣づたい、雨つぶのやじるしをたどって。
(2)
かすかな笛の音、わらいさざめく声が、どこからかながれてきた。
右からきこえたかと思うと、こんどは左から。大きくなったり、小さくなったり。そのひびきがふしぎで、わたしは、くらくらとめまいをおぼえた。
ぼうっとしながらクモの巣のめじるしをさがしていると、とおくにぽつんと、あかりが見えた。
木々のむこう、こがね色のまたたきが、まるで「こちらにおいで」とよんでいるようだ。
わたしは、みぶるいをひとつして、そのあかりをめざした。
笛の音やわらい声が、だんだんと大きくなった。
おいしげる木々がぽっかりひらけると、そこは、こじんまりした広場だった。
石の鳥居のおく、ふるぼけた「やしろ」が、雨にぬれている。そのあけはなした戸から、こがね色のあかりが、こぼれていた。
あたたかそうだ……
わたしは、すいよせられるように、やしろの石段をのぼった。
やしろの柱と柱のあいだには、ふとい縄がはりわたしてあった。
その縄の下をくぐったとき、笛の音がぴたりと止み、わたしはたちどまった。
「だれだ、われらの宴にふみいる者は」
われがねのような声が、あたりをビリビリふるわせ、わたしは、みをすくめた。
戸のむこうから、ぬっと顔をつきだしたのは、大きなくちばし、するどい目……しろい着物に、くろいエボシをかぶった大男だった。
大男は、手にした羽うちわを、ぴしりとわたしに向けてきた。
「おかしいなぁ、ちゃんと結界をはったはずなのに」
大男のわきからヒョイとのぞいたのは、笛をかた手に小首をかしげる、男の子だった。
「あれ、みなれない子だね。ごめん、きょうは花の宴で、人の子は……」
すまなさそうに、男の子は、わたしをながめた。
「人の子!はやく、もときた道をかえれ」
カラスのようなくちばしをクワッとあけて、大男が、わたしをにらんだ。あいかわらず、羽うちわをかまえている。
「でないと、ふきとばしてしまうぞ」
おおきく羽うちわがひるがえった。
「ちょっとまって、アズマ」
男の子が、戸のむこうからとびだして、大男のうでをおさえた。
「なにをする、シノブ」
大男が、目をむいた。
「あ、いや。この子は、もしかして……」
「もしかして……なんだ?シノブ」
大男は、いぶかしげに羽うちわをおろした。
「うん、アズマ。この子は、もしかして……」
シノブとよばれた男の子は、うなずいて、わたしにわらいかけた。
「ずぶぬれだから、ほっとくと、カゼをひきそうだ、と思ってさ」
おいで、とさしだされた男の子の手にひかれ、やしろの戸をくぐると、こがね色のあかりが、わたしをつつんだ。
(3)
足をふみいれると、やしろの中のはずのそこは、いちめんの野原だった。
草の原に花がさき、チョウがまっている。みあげても空はなく、ただ、金のひかりがすべてをみたして、あたたかい。
ぬれそぼったわたしの手足のさきまで、あかりがともったように、あたたまってくる。
目をまるくしているわたしを、男の子がふりかえった。
「おどろかせてしまったね。ぼくの名は、シノブ。こっちの大きいのは、カラス天狗のアズマ」
羽うちわをもった大男は、わたしを横目でムスッとにらんでいる。
きいろいボウシの女の子が、かけよってきた。そして、
「おきゃくさま、おきゃくさま」
と、わたしの手をとり、みどりのスカートをくるくるゆらして、はしゃぎまわる。
「あ、このとてもげんきな子は、タンポポさん」
そういうシノブくんに、女の子は、はずむようにねだった。
「シノブくん、笛。はやく笛をふいて」
シノブくんは、横笛を口にあてると、野を歩きながら、ゆっくりとふきならした。
笛の音にさそわれたのか、きいろいボウシの女の子たちが、つぎつぎにかけてきて、シノブくんのまわりで、ゆるく輪になった。
シノブくんが歩くにつれ、笛の音と、わらいさざめく声が、右にいったり左にいったり。大きくなったり小さくなったり。
みどりのスカートが、くるくるゆれる。手に手にもった、ツクシのバトンをくるくるまわす。きいろいボウシの子らの輪おどりは、シノブくんやアズマさん、わたしをとりまき、めぐりつづけた。
いつしかわたしは、笛の音をおいかけて、いちめんのタンポポが風にゆれる、金のひかりの道を、歩いていたのだった。
笛の音が止み、シノブくんがたちどまった。
タンポポさんたちが、いっせいにわたしの手をとり、大きなテーブルの席にひっぱっていった。
大きな大きな切り株のテーブルを、小さな切り株のイスがかこんでいる。
金の野原のまんなかにある、そのふしぎな席に、わたしはすわった。
(4)
うすむらさきのリボンをつけたおじょうさんが、花びらのかたちのコップに、のみものをそそいだ。
「スミレのおさけは、いかが?」
すすめられて、ひとくちすすると、あまくてやさしい味がする。
年輪をきざんだテーブルに、うすい花びらがまいおりてきた。
羽ごろもをまとった女の人が、ながいかみをなびかせ、ふわりと宙にうかんでいる。
シノブくんがしずかに笛を吹くと、女の人は、サクラの小枝を手に、たおやかに舞いはじめた。
「サクラの花は、すぐにちってしまうからな。このひとときの舞いのために、宴をひらいたのだ」
カラス天狗のアズマさんが、ムスッとつぶやくと、笛の音にあわせ、よくとおる声でうたいあげた。
「あまつかぜ くものかよひじ ふきとぢよ をとめのすがた しばしとどめむ」
さいてすぐちる、まいおりてすぐ天にかえってしまう、天女のようなサクラの花。
風に花びらがながれる、雨のようにながれる。
(ヤット、アエタ……)
わたしのむねのおくで、あのちいさな声がささやいた。
(ハナニ、アエタ……)
わたしの目をとおして、いま、このけしきをながめているのは、ひとつぶの雨のしずくなのかもしれない。
むねのおくが、スミレ色にそまる……あまくやさしく、あたたかなスミレ色に。
わたしは、じぶんのとがった耳や、ながいシッポが、ピョコンととびだすのをぼんやり感じ、切り株のテーブルにつっぷすと、そのままふかいねむりにおちた。
(5)
どれほどのときが、たったのか。
雨だれの音に目をあけると、わたしは、イグサのしきものの上、うすがけのふとんをかけられ、やしろのゆかにねかされていた。
「白ギツネの子か……どこからまよいこんだのか」
「森のケモノのにおいがまるでしない、ふしぎな子だね」
アズマさんとシノブくんとが話しているのは、どうやらわたしのことだ。
おきあがると、ふたりがそろってこちらを見た。
やしろのあけはなした戸のむこうは、宵やみの森だ。雨がふりつづけている。
シノブくんが、にっこり声をかけてくれた。
「おや、目がさめたね」
「たあいもない。花見酒によい、キツネの耳やらシッポやら出して、ねむりこけておったぞ」
アズマさんが、カラスのようなくちばしでカラカラわらった。
「おぬし、どこから来た。名は、なんという?」
たずねられて、わたしはこまった。
「わたしは……わたしの名は、イスルギ」
自分の名だけは、なんとか思い出せたけれども、そこから先のことばが、どうしてもみつからない。どこから……どこから来たのだったか。
戸口にたち、雨もようの夜空をみあげた。
なんども見聞きし、よく知っている気がするのに、ここは、はじめておとずれる見しらぬ世界だった。
「よくふる雨だね。ゆうべは、たくさんの流れ星がおちたのだけど。今夜は、星も見えない」
シノブくんがためいきをつくと、アズマさんがこたえた。
「まぁ、そういうなよ。四月の雨は、五月の花をじゅんびする、と昔からいうのだぞ」
四月の雨、五月の花。
そのとき、宵やみをながめるわたしの目から、ポロンとひとつぶ、しずくがおちた。
(ハレヤカナ、ウタゲヲ、アリガトウ……)
あの雨つぶだった。
つめたい天からの旅のなかば、いちどでいい、花の宴を見たかったのだろう。のぞみのかなった雨つぶは、森の土にすいこまれていった。
「おぬし、泣いているのか」
アズマさんがいった。
「いえ、そうではなく……」
わたしは、目をこすった。
雨のしずくは、地にかえった。
けれど、わたしはどこから来て、どこへ行くはずだったのだろう。
夜の天地のはざまで……
シノブくんが、わたしのかたにポン、と手のひらをおいた。
「はじめて見たとき、思ったよ。もしかして、この子は……どこかとおくから来た、大切なお客さんなのかもしれないな……って」
とある四月の雨の夜、わたしは、見しらぬ森で、シノブくんのやしろのお客になった。
( ―四月の雨― 2013.4.11 ) ©Tomoe Nakamura 2013
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