(1)
鳥たちの鳴き交わす声が響く、のどかな午後だ。五月の空が青い。
ぼくはひざをつき、さいせん箱をのぞき込んだ……ガランとした箱の底には、五円玉や十円玉が幾つかさびついているだけだ。ま、当たり前かな、こんなガサヤブの奥まで踏み分けて来る人間なんて、めったにいるもんじゃない。
うす暗いほこらに戻り、ぼくはごろんと寝ころがった。
朽ちかけた鳥居、草に埋もれた参道、御影山の中腹に鎮座する『月山神社』。
ここが、今のぼくの、仮のねぐらだ。
誰かの声が響く。すぐそばまで来ている。幾人もの笑い合う声が、耳をよぎる。でもいつも、いつまで待っても誰一人、登ってはこない。山って、声の響き方がとても不思議だ。
人間の世界では、「聳える」と書いて、「そびえる」と読むらしい。
しん、とした静けさに、耳を澄ます……小鳥のさえずり、木々のざわめき、ぼくを包む風。すべての音、あらゆる気配を従え、ぼくの耳を従えて、御影山が今、大きなかたまりとしてここに在る。
聳えている。
色々あってこんがらがった心をひととき休ませ、身のふり方を考えるためには、ここはちょうど良い場所なのかもしれない。雨もりの跡が残るほこらのぼろ天井をながめながら、そんなことを思っていたとき……風を切る羽音がぼくの耳をかすめた。
観音開きの扉の木格子のすきまから、水色の影が流れるように飛び込んできて、扇に似た両の翼をゆっくりとたたんだ。尾羽根の長い、水色の小鳥が一羽、ちょこんと床に降りたって、つぶらな瞳でぼくを見上げていた。
「お助け下さい。シノブ様にお目にかかりたくて参りました」
と、水色の小鳥がさえずった。
「すずめ達がうわさしているのを聞きました。『月山神社』に風の童子様が仮住まいしていらっしゃる。野の者、人の世の者、分けへだてなく悩み事の相談に乗って下さる、と」
「それは、初耳だ」
ぼくは肩をすくめた。
水色の小鳥が、羽根をふくらませ、ピヨピヨ騒ぎたてた。
「あなたは、シノブ様の御従者ではないのですか。シノブ様はどちらに?」
「ここにいるけど」
ぼくが親指で自分の胸を示すと、
「ピヨ?」
と水色の小鳥は一声鳴いて、くちばしを開けたまま、ぼくを見た。
「あ、あなたがシノブ様……た、大変失礼いたしました。私はまた、てっきり風の童子様というものは、白い和装束にさらりと身を包み、長い黒髪を白いこよりできりりと結っておられるものかと、勝手に想像しておりまして……」
言い訳しているのか人をけなしているのか、水色の小鳥はピヨピヨと盛んにさえずり続ける……白い和装束、長い黒髪、か。ま、なかにはそんな古風な童子もいないわけじゃないけれど。
「山の者だって、時と所に合わせて衣装を選ぶんだよ」
ぼくは小鳥のおしゃべりをさえぎって、よっこらしょと身を起こし、足を組んで木の床に座った。ジーンズにTシャツ、伸ばしっぱなしの髪が、肩にかかる。どこから見ても、人間の若者らしく見えるはず……この姿で街を歩いたりもするんだから。あまり時代にそぐわない身なりは、無意味に人目につくだけだし。
「シノブ様、もうすぐ人間の女の子がここにやって来ます。マヤという名で、私の飼い主です。マヤおじょうさんがとても困っておいでなのを黙って見ていられず、私がここまで案内して参りました」
「人間の女の子が……もうすぐ、ここに?」
ぼくは、はずみをつけて立ち上がった。そして、ほこらのすみに立てかけてあったスケッチブックを左手でつかみ、床に転がしておいた鉛筆を右手で拾った。パラパラと画用紙をめくると、描きかけの雑木林のスケッチが出てきた。
「久しぶりのお客さんだな」
ぼくは、スケッチブックのページを開きながら、扉の木格子に向かってまっすぐ歩いた。木格子にぶつかる寸前、ふっと力を抜くと、ぼくの体はふわりと扉をすり抜けた。それからぼくは、ほこらの前の小さな広場に歩み出て、何気ない風で描きかけのスケッチに鉛筆を走らせ始めた。ずっと前からこうして、ここで絵を描いていたみたいに。
水色の小鳥が、ぼくの肩にとまって、黒い瞳を丸くした。
「お上手ですね……」
「だろ?」
早くも、ガサヤブの斜面の下の方から、草を踏み分ける足音が、近づいてきた。
「ピヨ……ピヨちゃん……どこにいるの?」
可愛らしい声だ。くりかえし小鳥の名を呼んでいる。
「ピヨっていうのか、お前」
「はい、マヤおじょうさんがつけて下さった名前で、大変気に入っております。
おじょうさんは、私がまだ幼いヒナ鳥の時分から掌に乗せ、食べ物を下さいました。また、ピヨピヨ、ピヨちゃんと呼びかけながら、いつも子守歌を歌って下さいましたので、私が最初に覚えたのは『ピヨ』という言葉だったのです……」
水色の小鳥がとめどなくさえずっている間に、ガサッと草むらが大きく揺れて、一人の少女がぼくの目の前に現れた。
肩まで伸ばした髪は、ふんわりカールして、眼鏡の奥でまん丸い瞳が輝いている。紺色の制服は、この御影山のふもとにある御影中学校のセーラー服だ。手には鳥かごをさげている。
少女は、鳥かごを片手に、ずっと草深い斜面を登ってきたせいで、息をはずませていた。
「ピヨちゃん!」
水色の小鳥がさっと飛び立って、ぼくの肩から少女の肩へと移った。
「ああ、よかった……」
つぶやきながら、少女は小鳥を見つめ、ぼくを見つめた。
「あの……ありがとうございます。私のセキセイインコをつかまえて下さって」
「ここで絵を描いていたら、その子が飛んできて、ぼくの肩にとまったんだ。とっても人なつこい鳥だね」
(マヤ様と会話をつないで、相談に乗ってあげて下さい)
と、ピヨがさえずり続けるものだから、ぼくは口からでまかせに言葉を探し、何を話していいのかわからない苦しまぎれに、雑木林のスケッチを鉛筆でトントンとたたいて、少女に示した。
少女は大きな瞳をみはって、スケッチブックをのぞき込み、首をかしげた。
「不思議な空気が流れている絵ですね……私も、中学校では美術部なんです」
(そう、そう、その調子)
と、さっきから人をあおっているピヨの言葉は、どうやら少女には通じていないらしい……単なるさえずりとして聞こえるようだ。
「それじゃ……本当にありがとうございました」
「あ、あの……」
ぺこりと頭を下げ、少女は肩にとまったピヨを掌に移し、鳥かごの中へそっと戻そうとした。そのとき、かがんだ少女の背中に、一瞬、黒いもやのような影がにじんで、すぐ消えた。
「あっ」
とぼくが声をあげたのと、ピーッと鋭い鳴き声をたててピヨが舞い上がり、一直線にぼくの肩へ飛んできたのと、同時だった。少女がとまどった顔で、ふり向いた。
ピヨは全身の羽根を逆立て、黒い瞳を皿のように見開いていた。
「あ……ごめん。あの……そうだ、ぼく雨森忍っていうんだ。絵描きになりたくて勉強中で……君のこと、今ここでスケッチしてみたいんだけど……」
少女は、ますます困惑した様子で、ぼくの顔とぼくの肩のピヨとを見比べた。そりゃあそうだよ。草深いほこらの前で、スケッチブックを持った若い男に声かけられたら……
「いやっその、無理にというわけでは……」
あわててもごもご言うぼくに、ふいにニコッと少女は微笑んだ。
「いいですよ。少しの時間なら……ピヨを見つけて下さった御礼です」
なんだか間抜けな感じだけど、つまりそれが、ピヨとぼくとの出会いだった。と同時に、マヤという少女との出会いだった。
*
マヤが、一本の太い樹の幹に寄りかかっている。風が、その髪をゆらしている。
風はいつも、風景を通り過ぎるだけだ。いつも……いつも。
だからぼくは、形あるものをこの手で残すことに心惹かれるのかもしれない。風が水面に波を立て、砂に風紋を刻むように、ぼくはスケッチブックに少女を描く作業に熱中する。
無心に鉛筆を走らせていると、御影山の風がぼくを包み、色々なことをささやきかけてくる。
ぼくは何も考えず、ただ風の声を白い紙に、線として描き出していく。
ピヨが時おり翼を広げ、ぼくの頭や肩や背中を、ちょんちょんと行ったり来たりする。
「ピヨってば、ずいぶん雨森さんになついちゃって……」
「シノブくんでいいよ」
雨森なんて、雨もりのするほこらの天井から連想して、とっさに口にした名前だから。
「じゃあ……シノブくん?」
マヤは、困ったような声で言った。
「私、ピヨにきらわれちゃったみたい。さっきもとてもおびえた様子で、窓のすきまから逃げ出して、一直線に御影山へ向かって飛んだので……私、あわてて追いかけて来たんです」
「え?……うん、大丈夫。きらわれているわけじゃないよ」
背中でピヨピヨピヨと騒ぎ立てる声にうなずきながら、ぼくは鉛筆の先を見つめた。少しの間、目を閉じて、指先に意識を集中させる。
「でも、ピヨが何におびえるのか、心当たりはないかな」
「さあ……心当たりと言っても」
たたずむマヤを描いた今までのページをめくると、まっ白な紙が現れた。その新しい紙に、ぼくは鉛筆をすべらせる。
「ちょっとした音とか、見慣れない物とか、何かいつもと違っていることは?」
「これといって特別……ピヨに関わるようなことは何も」
マヤは、瞳をくもらせた。
「ただ……」
「ただ?」
「私、この頃よく夢にうなされて、夜中に目が覚めるんです。何か黒いものに追いかけられるような夢……でも、きっと……」
「きっと?」
「中学校の友達のことでちょっと心配事があるから、そんな夢を見るんです」
マヤは、悪い夢をふりはらうように首をふり、髪を掌でかきあげた。
「私がくよくよしているから、沈んだ空気がピヨにも伝わっちゃっていたのかな。ごめんね、ピヨ。さ、うちに帰ろ」
マヤが掌を伸ばすと、ピヨは、ぼくの肩からパタパタと飛び立った。
「こうして静かに樹にもたれていたら、なんだか気持ち良くて、元気が出てきました」
ぼくとマヤとの頭上を、ピヨが飛び回る。
「そうか、また散歩においでよ。ぼくもよくここでスケッチするんだ」
スケッチブックのページを破り取り、ぼくが手渡すと、マヤの顔が赤くなった。
「実物よりすっごく美少女……」
「その絵、持っていって」
「ありがとう。私、早乙女麻矢っていいます。色々お世話になりました」
ぺこりと頭を下げて、マヤは飛び回る水色の翼を目で追った。ピヨピヨピヨとさえずる声が、樹々の間に響く。
「大丈夫だよ、ピヨ。御主人様と一緒に帰れ、もう夕方だ」
(シノブ様、まだ何も解決していません。マヤ様をお助け下さい)
懸命に訴えるピヨに、早く行け、と目配せし、ぼくはスケッチブックに視線をもどした。
そうとも、まだ。解決どころか……
ほんの始まりだ。白いページに黒々とうずくまる影……人のようにも獣のようにも見える。こいつが今回のお相手、らしい。けっこう力のある妖魔なのか、意識をこらしても、その姿をくっきりとイメージして描き出すことは出来なかった。
もしかしたら、この妖魔が取りついているのは、マヤ本人ではなく、彼女に関わりのある人物なのかもしれない。
乱れてりんかくの定まらない鉛筆の線を眺めて、ぼくは溜め息をついた。
にっこり笑って手を振るマヤ。マヤの持つ鳥かごの中で羽根をふくらませているピヨ。
草むらに埋もれ遠ざかっていく姿を、夕刻の風が包む。
風はいつも、風景を通り過ぎるだけだ……
でも、まだ今は、通り過ぎるわけにもいかない……この影の件が未解決のうちは。このゴチャゴチャの線の固まりが、やっかいな相手でなければ良いのだけれど。
ぼくは、もう一度溜め息をついて、スケッチブックをバタンと閉じた。
今夜あたり、風が荒れる予感がした。
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(2)
御影山は、北国の地方都市・吾妻市のほぼ中央に位置する、なだらかな山だ。
人間の足でもハイキング感覚で登れる。山というより巨大な丘に近いが、古代からの霊山として親しまれている。巨岩・奇岩があちらこちらに露出し、神社や寺が点在し、かつては山伏たちの修業の場にもなった。
今は、この御影山に寄りそうように、美術館や図書館など文化施設が建てられ、ふもとには緑地公園が広がっている。
マヤの家は、御影山のふもとの、静かな住宅街の一角にあった。
月の光が、青く街を照らしている。
ぼくは、アスファルトを踏んで深夜の小道を歩き、一軒の白い洋館の前で立ち止まった。
ここだ。
マヤに渡したスケッチに織り込んでおいた風が、式神となってぼくにささやきかけ、マヤの居場所、妖魔の気配を伝えてくれる。
切妻屋根が、月の光に黒く影を浮かび上がらせている。その屋根へと、地面をけって飛び上がり、屋根にはめられた天窓のガラス越しに、ぼくは二階の室内をのぞき込んだ。
なんだか泥棒に入るみたいで、居心地が悪い……よほど霊感の強い人でなければ、今のぼくの姿を見ることは出来ないにしても。
アスファルトの道を散歩している黒猫が、瞳を緑色に光らせて、屋根の上のぼくをにらみ、毛を逆立てしっぽを立てて、ウミャアウと鳴いた。
天窓の下は、マヤの部屋らしく、勉強机やベッドが置かれていた。ベッドには、すやすやと眠る可愛らしいマヤの寝顔が……と期待したいところだったが、マヤは枕を床に落として、もがいていた。胸に手を当てて、苦しそうだ。
ぼくは、想いをこらし、一すじの風になると、天窓のすきまから室内へと吹き込んだ。
寝具の乱れたベッドの上、ベージュ色のパジャマを着たマヤが、体を丸めてかすかに首を振り、うなされていた。
「マヤ!」
天窓からすべり込みながら、ふわりと宙返りをすると、ぼくは古ぼけたジーンズ姿の若者に戻って、トン、と木の床に着地した。
そしてベッドに駆け寄って、マヤの手をとった……普通だったら、
「キャア、なんであなたがここにいるの? 助けて、ママ、パパ!」
と110番通報されてしまう場面だが、幸か不幸か、マヤはただならぬ気配を漂わせ、ぼくの手など眼中にない。ふいにパッチリと見開いた、両の瞳の焦点が合っていない。
眼鏡をはずしたマヤの素顔、寝乱れてクシャクシャのベージュのパジャマ姿、もつれた髪の毛がほほにかかる様子などが妖しいほどに可愛らしく……なんて言って見とれている場合ではなかった。
虚空を見つめるマヤの瞳に、天窓から射す月光が青白く宿り、その身を包むように黒い影にも似た煙が湧き出してきた。
マヤは、糸で操られる人形のようなぎこちない動きで、ベッドから半身を起こし、足を床におろして、ぼくを見た。
「お前は、誰だ」
マヤの唇が動いた。その声は、どこか遠くから響いてくるように、虚ろでよそよそしかった。口調も、昼間話したマヤのものとはまるきり違っている。
「お前こそ誰だ……その子から離れろ」
ぼくは、首に架けていた水晶のかけらを、掌でさぐった。
ガシャン、と部屋のすみで金属がふるえる音がした。それに続いて、バサバサ翼をひるがえす音……勉強机の傍らに置かれた金属製の鳥カゴの中から、声がした。
「シノブ様!」
「ピヨ……大丈夫だからじっとしていろ。今、お前の主人に取りついた魔を祓ってやる」
掌の中に、小さな水晶がある。御影山の山腹の土から掘り出した、六角柱の結晶だ。
マヤを包む黒い煙を、この結晶へと吸い寄せ、封じ込めなければならない。胸元で水晶をにぎり、瞳を閉じると、ぼくを取り巻く風の流れが起きた。
「こうるさい奴……失せろ、私の邪魔をするな!」
マヤが低くうめき、ぼくの手を振り払った。
窓から忍び込み、ベッドの傍らにひざまずいて少女の手を握りしめ、胸に吊るした水晶にたぎる想いを封じ込め……と、月光の似合うしゃれたデートにしたかったけれど、どうやら先方は、そんな優男は好みでないらしい。
マヤの髪がゆっくりと逆立ち、瞳が赤く燃えた。黒い煙が渦を巻き、やがて身をよじらせる幾匹もの蛇となって鎌首をもたげ、その一匹が弧を描きながら、ぼくめがけておそいかかってきた。
「おっと。それ、反則……人間わざじゃないだろ」
飛び退きざま、ぼくは胸元の水晶を強くつかんだ。ぷつりと糸の切れる音がした。
「だったら、こっちも手加減しないけど」
引きちぎられた糸がすべり落ち、ぼくの掌には、輝きを強める水晶が残った。水晶は、まばゆい光を放ち、みるみる大きくなって、つららのように透き通る一振りの剣へと変わった。
ぼくがその剣を思いきり振るうと、黒い煙の蛇たちは真っ二つに切れて、のたうった。
「うん、切れ味は上々だな」
「おのれ、よくも……」
怒りに声をふるわせ、マヤがベッドから立ち上がり、一歩二歩と近づいてくる。
マヤを取り巻く黒い煙が、無数の蛇から形を変えて、今度は大きな翼になった。翼が、ぼくをくるみ込むように伸びてくる。風切り羽の先には、するどいカギヅメが光っていた。
ぼくは、水晶の剣をかまえ、一直線に前に出て、黒い翼をなぎ払おうとした。
ガシャン!
金属音が響いて、水色の影がぼくの目の前をよぎった。
「シノブ様、マヤ様を斬らないで下さい!」
「ピヨ、危ないからどいていろ!」
飛び出してきた小鳥にさえぎられて、一瞬動きを止めた右腕に、黒い翼のカギヅメが、おおいかぶさるように食い込んできた。
「……ってー!」
力いっぱい腕を振って、黒い翼を払いのけようともがくと、ぼくの体から突風がほとばしるように吹き出し、天井の電灯が揺れ、窓がガタガタ鳴り、カーテンは舞い、机の上の本がバタバタと倒れた。風の流れは、滝のように強くなる。
やばい、このままではいずれ、マヤんちがぶっ壊れそうだ。それに、あまり長く閉め切られた室内で力を使い続けると、ぼく自身も弱ってしまう……白状すると、人工的な密閉空間は苦手だ。風の通り道が少ない場所では、ぼくの力は半減してしまう。
なんとかカギヅメをふりほどくと、ぼくは後ろへ飛びすさり、ベランダに面したガラス窓を開け放った。背中でカーテンがはためき、夜の大気が流れ込んできた。
ひんやりと心地よい夜風に包まれ、ぼくは右腕の傷をかばいながら、左手で剣を握った。
つかみかかるようにおそってきた黒い翼に、なんとか左手で一太刀浴びせると、すさまじいうめき声を上げながら、そいつはカーテンにぶつかり、窓から外へ逃げ出した。
「待てっ。てっいてて……」
月明かりの中、小さな黒雲のようなものが、市街地の方角へ飛び去っていく。ベランダからその姿を目で追いながら、逃がしてしまったな、と、ぼくは唇をかんだ。利き腕の傷さえなければ、今すぐ追いかけるのに……
「マヤ様、マヤ様!」
ピヨの声に振り向くと、マヤが床にうつぶせに倒れていた。
「ピヨ……お前、どうやって鳥カゴから出たんだ。大丈夫だからじっとしていろって言ったのに」
だいたい鳥って、鳥目で夜には目が見えないんじゃなかったっけ?
無茶な奴だ……こんなにピヨに思われて、飼い主のマヤはまったく、幸せ者だ。
「シノブ様、何をのんきなことをおっしゃっているんです。マヤ様が……」
せっかちな鳥め。
ぼくは溜め息をついて、指をパチンと鳴らした。マヤの勉強机から、一枚の紙がふわりと舞い上がり、ぼくの掌へ落ちてきた。
「よく見ろ、ピヨ。マヤはここにいる」
白い画用紙の中で、マヤは安らかに眠っていた……ベッドの中の少女の寝顔のスケッチとして。一枚の鉛筆画として。
「えっ、では、このマヤ様は?」
「この子は、式神だ。『月山神社』で、マヤに肖像のスケッチを渡しただろ。マヤの身代わりになってもらったんだ」
もう一度、指をパチンと鳴らすと、床に倒れていたマヤの姿は消えて一枚の画用紙になり、ベッドの中では、何事もなかったかのように本物のマヤが寝息を立てていた。
「つくづく無邪気な寝顔だなぁ……さて、散らかした部屋を片付けないと」
風で倒れた本やぬいぐるみを元の位置に並べ、少し破れた画用紙を眺めた。ボロボロの制服を着たマヤが、樹にもたれている。
「ありがとな……」
ちょん、と指ではじくと、風にほどけるように鉛筆の線が一本ずつ薄れ、消えていき、開け放した窓からすべり出るように白い画用紙は舞い上がり、ひとひらの木の葉になって、夜空に溶けていった。
「も、申し訳ありません。私はまた、てっきり……」
ピヨが、パタパタと頭上を飛びまわる。
「あのさ、仮にも御影山の風の童子が、女の子を危ない目にあわせるわけ、ないだろ?」
ぼくは、ピヨに水晶のかけらをかざして見せた。
「この水晶に、妖魔を封印しようとしていただけだ」
「わ、私が邪魔したせいで、シノブ様が右腕に……」
「気にしなくていい、かすり傷だから。それよりも、妖魔のことだけど」
ぼくは、窓の外を眺めた。
「街の方へ、逃げていった。あいつの声、どこか遠くから響くような感じだったし、誰かマヤに関わりのある人間に取りついていて、夜ごとにマヤを悪夢で苦しめていたのかもしれない」
「妖魔が、人間に……ですか?」
「妖魔だけでは、あんなに強い力は持てないよ。人間の情念と結びつかなければ、妖魔はただの暗い影・気配にすぎない」
窓明りや街灯に彩られた家並みが、静かに闇に沈んでいる。このおだやかな夜景のどこに、あの黒雲は逃げ去ったのだろう。
「残念だけど、一夜で解決というわけには、いかなかった。たしかマヤは、友達のことで悩んでいたし、もう少し話を聞いてみた方が良さそうだな」
考え込んでいたら、部屋のドアの向こうから、パタパタとスリッパの足音が響き、
「なんだかピヨが騒がしいわよ。マヤ、ちゃんと窓は閉めてある?」
と、ドアノブが回された。
「んー……なあに、ママ?」
ベッドの中のマヤが、寝ぼけ声で答える。
まずい……ぼくは、透き通った夜風になって、窓からベランダへ、するりと抜け出した。
ふわりと空中に浮かび、部屋をのぞき込むと、間一髪。ピヨがくちばしで鳥カゴの入り口を持ち上げ、ピョン、と自分でカゴの中へ戻るところだった。
ガシャン。金属の戸が落ちる。
なるほど……ああして自由にカゴを出入りしているわけか。器用な鳥だよ、まったく。
「マヤってば、また窓を開けっ放しにして。風邪をひくわよ」
これは、マヤのお母さんの声。
マヤは、お母さん似かな。
「おかしいなあ。ちゃんと閉めたはずなのに……」
マヤが首をかしげながら、窓辺に来た。外からのぞき込んでいるぼくの目と、マヤの視線とが、揺れるカーテンごしに、バッチリ出合ってしまった。
黒い瞳が、まっすぐこちらを見つめる。
「いい風……」
つぶやいて、マヤは瞳を閉じた。
そうだよな、ぼくの姿は見えてない……ほっとするような、少し寂しいような。
月の光が青い。
なんとなくふわふわドキドキしながら、ぼくは、御影山の月山神社へと、ひとすじの風になって飛んで帰ったのだった。
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(3)
ものごとは、そんなに甘く進まない。
「って、いててて……」
夜通し、妖魔のカギ爪に引き裂かれた右腕の傷が傷んで、ぼくはほこらの床で転々と寝返りを打った。明け方にやっと眠ることが出来て、目が覚めると、もう昼下がりだった。
ぼくは、きれいな冷たい水が欲しくなって、少しふらつく足でほこらを出た。
「あんの妖魔の野郎」
昨夜マヤの部屋では夢中で気づかなかったけれど、思ったよりダメージは大きかった……奇妙に体がふわふわドキドキしていたから、たぶん爪に毒があったのだろう。
右の二の腕が割れて、開いた内側に影法師のように揺らぐ闇がのぞいている。
ざわめく闇・夜の色。これがあの妖魔がぼくに刻みつけていった傷。
この闇が深く濃くなれば、ぼく自身が意識を失い傷口に呑み込まれ、魔性の毒をふりまく『黒い風』になり果ててしまうかも。
ぼく達『風の童子』は、なんといっても実体が風だから、とにかく周囲の空気に染まりやすい。
長い年月修業を積んで、風を浄化する力を身につけた大気の精霊が、つまり『風の童子』なんだけど……力不足で、浄化しようと思った妖魔に逆に取り込まれ、病気や災いを運ぶ『黒い風』に堕ちてしまう者も、決して少なくはない。
「早く、傷口を清めないと……」
こんなとき風になってひと飛びに飛んでしまいたいけれど、おのれを保つ意識が薄らいだ瞬間、傷口に呑み込まれてしまう可能性もゼロではない。
この痛みに耐えている間は、少なくとも自分を見失わないですむ。なんだかなぁ……ちょっとの油断でこんなケガをして、情けないことこの上なかった。
御影山のふもとの小道に、『たんたら清水』という湧き水がある。まるで岩肌をすべり落ちる透明な玉すだれのように、幾すじもの水流がほとばしっている。
どんなに雨が少ない時でも、この『たんたら清水』のこんこんと湧きだす流れだけは、枯れることがない。
御影山の恵み……と古くから人々に大切にされてきた湧き水で、「たんたら」というのは、水がしたたり落ちる音を表しているという。
ぼくは、『たんたら清水』にたどり着くと、石の受け口にあふれている清水を掌ですくって飲み、ひしゃくで汲んだ水を右腕にかけて傷口を洗った。すーっとしみこむように、冷たい感触がのどと腕に広がり、その心地よさにぼくは目を閉じ、溜め息をついた。
天から降り、岩や木の根の間を旅して、ゆっくりと地表に湧き出てくる清らかな水……かすかに落ち葉や苔の香りがする。
「どうしたんですか、こんな所で?」
ふいに声をかけられて、ぼくは飛び上がりそうに驚いた。
「シノブくん?」
目の前に、セーラー服の少女が立っていた。学校帰りらしく、スクールバッグを手にさげている。
「ああ、マヤちゃん」
「ケガしてるんですか?」
少女は、大きな丸い瞳でこちらをのぞき込んできた。
「平気だよ、たいしたことない」
あ、この傷口を見たら、赤い血が流れていないこと、一目瞭然……ぼくは、両腕を後ろで組んだ。
「だめ、見せて……」
「ほんっと大丈夫……かまわないでいい」
「シノブ君、とっても痛そうな顔してる」
マヤににらまれて、しぶしぶぼくは腕をほどいて前に出した。するっと風になって消えてしまうわけにもいかないし……妖魔の件が未解決のままだから、まだこの子の側にいないと、ね。
「あぁ、ひどいケガ!血が出てる」
そのように見せかけるために、足りない気力をふりしぼって、一体ぼくは今、何をやっているのだろう。
「すぐ手当てしたほうが……中学校の保健室が一番近いから、連れていってあげます」
「うん。あの、その気持ちだけで充分だよ。どうぞおかまいなく」
「何言ってるの、こんなケガしてるのに」
マヤは、ものすごい真顔でぼくを見つめた。
「いったいどうしたの?」
「月山神社のほこらの前でスケッチしていて、カラスにおそわれて」
深夜、君の部屋で……とは言えないぼくの困惑すら、マヤの汚れなき瞳には、傷ゆえの苦悶と映るらしい。昨夜のドタバタ騒ぎ、君はなんにも知らずにすやすや眠っていたのだから、知らなくても当然、か……その危険なカラスが、どんな奴だったか。
「大丈夫?歩けるでしょ……中学校はすぐそこだから」
マヤは、ほんとに心配してくれている。その気持ちが伝わってきて、右腕の痛みを包み込む。
たんたら清水のおかげでずいぶん元気も出てきたし、彼女の周囲については色々と知りたいこともある……それなら、いっそマヤの中学にでも行ってみるか。
ぼくは、深く息を吸い込んだ。妖魔の行方がとても気になる。
もうこうなったら、どこまでも行ってしまえ。成り行きまかせ、風まかせ。もともと、ぼくは風じゃないか。いざ、マヤちゃんと、御影中学校・保健室へ……という展開もあり、ってことにしておこう、かな?
*
御影中学校は、その名のとおり御影山の山すその斜面を切り拓いた土地に建っている。
吾妻市の中央、街中の学区であるにも関わらず、山中に建つ学校、という不思議な立地だ(それというのも、御影山が吾妻市の中央に鎮座しているからなのだが)。
御影山の山際の、急な並木道の坂をのぼって、四方は空と校舎だけという小さな運動場にたどり着く。そこからまた急な石段を登って、やっと古びた鉄筋コンクリートの校舎の『御影中学校』玄関前に出る。
マヤに案内されて、ぼくは御影中学校の薄暗い建物の中に入った。
校舎の背後に、御影山の木立がうっそうと繁っている。その木立が、廊下のガラス窓ごしに覆いかぶさってくるような印象だ。
下校時刻を過ぎているので、廊下を行き交う制服の中学生や教師たちの姿はまばらだった。
「保健室」と書かれた白いプレートが壁から突き出している。木製のドアを開けると、かすかに消毒薬の匂いがした。
部屋の半分は二つのベッドで占められ、そのうちの一つはクリーム色のカーテンで閉ざされている。白衣を着た中年の女性が、机の書き物から顔をあげて、ぼく達を不思議そうに見た。
「あら、早乙女さん。どうしたの、そちらの方は?」
「ケガ人です、先生。たんたら清水の所で、とっても具合悪そうに休んでいました。それで、一番近くで手当て出来る場所は、この保健室だから、御案内しました」
「では……とりあえず、ケガの様子を見せて下さい。ここで応急処置をして、病院に行ったほうがいいかもしれないわね」
白衣の女性は、戸惑った言葉の調子に似合わず、てきぱきとぼくの腕をとって診察し始めた。
「まるで何かに引き裂かれたようなひどい傷だわ……消毒するから、しみますよ」
オキシフルをスプレーされて、傷口に何か異物が残っていないかピンセットで確認されて、軟膏を塗られて、包帯を巻かれて……ひととおりの手当てが終わるのを、ぼくはひたすら待った。
「カラスですって?」
と、ぼくの言い訳を聞いた白衣の先生は、驚きと同情の混じった、でも少し疑わしそうな声をあげた。
「ええ、そうです。大きくて真っ黒な……」
妖魔の姿を思い浮かべながら、ぼくは真面目な顔でうなずいた。
「何か、カラスに物でもぶつけたとか?」
「いいえ、そんなことする訳ありません」
水晶の剣で斬りつけはしたけれど。
「何にもしないのに襲いかかってくるなんて、いまどきのカラスは……なんでしょうね、何か自然のバランスが狂って、生き物の心までおかしくなっているのかしら?」
「……えーと、自然のバランスを保つことは、心の健康に大切ですよね。最近、そういうバランスを崩した出来事、人間の世界では多いですよね」
なんだかのん気なケガ人、という視線で、マヤと先生があきれたようにぼくを見た。
「あなたを襲ったカラスの話を、していたんですけれど……」
そうですよ、ぼくを襲った黒い鳥の話です。
「生徒達にも、カラスに気をつけるように注意しておかなくちゃ」
注意すべきなのは妖魔なのだけれど、人間の目には、彼らの姿は映らないのだから仕方がない。御影山のカラスは、罪もないのに悪者にされてしまった。
保健室の先生は、ぼくの腕に包帯を巻き終わると、壁時計を見て、クリーム色のカーテンに閉ざされたベッドの方に声をかけた。
「牧村さん、具合はどう?」
「はい、もう気分がよくなりました……」
小さな声が答えた。女の子だ。
「えっ、美香なの?」
マヤがつぶやいた。
「あら、早乙女さんと牧村さんとはお友達……同じ美術部だものね。ちょうど良かった。早乙女さん、牧村さんと一緒に帰ってあげてほしいの。あなたが付いててくれれば、安心だから」
「美香、どうしたんですか」
「授業中に気分が悪くなって、ここで休んでいたのよ。寝不足じゃないかしら?だって熱もないし、ぐっすり眠っていたわ……最近こういうこと多いのよ、牧村さん」
クリーム色のカーテンを開けて、さらっとした黒髪の少女が、顔をのぞかせた。
「すみません、先生。この頃、なんだか夜よく眠れなくて……毎晩、悪い夢を見て、でも朝になるとどんな夢を見たのか思い出せなくて、ぼうっとしているんです」
「悪い夢?」
マヤが、はっとしたように美香を見た。
「そう、それは心配ね。何か悩み事があったら、私でもスクールカウンセラーの先生にでも、いつでも相談してほしいわ」
「ええ、ありがとう。でも今日のところは元気になったので、マヤと帰ります、先生」
美香は、ストレートの黒髪を長く伸ばした、大人っぽい顔だちだ。あいまいに微笑んで、ベッドからマヤを見上げた。そのとき、ふわっと風が起こって、美香の肩の辺りから青白い影が抜け出し、保健室を横切り、木のドアに溶けるように吸い込まれた。
「あっ」
ぼくは、あわてて白い影の後を追った。先生と美香とマヤが、いっせいにけげんそうにぼくを見つめる。三人には、その青白い影は見えないようだった。ぼくはかまわず、ドアを開けて、廊下に飛び出した。
ふわり、ふわり、と漂うように、白い影が古びた廊下を進んで、とある一角にふっと消えた。
ぼくは、走ってきた廊下を振り返った。こちらに急ぐマヤの姿が小さく見えた。ぼくは、一瞬ためらった。
「この場合、仕方ないな!」
女子トイレと書かれた入り口に飛び込んで、そのまますうっと体の力を抜き、目を閉じる。
「シノブ君?」
後から追いついたマヤが、ものすごく困った声でこう言っているのが聞こえる。
「あのう、ここ女の子用だよ。間違っちゃったのかな」
この姿は見えないはずなのに……
ぼくは、ふわりと浮かんでマヤを見下ろしながら、どうしてマヤがここから離れていってくれないのだろう、といぶかしんだ。
「せっかく包帯を巻いてもらったのに、ほどいちゃうし、ほんとに変なシノブ君」
あっ、そうか。トイレの入り口で姿を消して風の体に戻ったとき、包帯だけは本物だから、ほどけて床に落ちたんだ。マヤは、白い包帯を手に、腑に落ちない様子でいる。
「この包帯、きれいなまま……シノブ君、あんなに血が出ていたのに」
マヤは不安気に、並んだ個室のドアを見回して、ぼくの名を呼び、それでも気配が感じられないと、首をかしげながら出ていった。
「やれやれ」
ため息をついていると、ふっと肩の辺りで空気がそよいだ。
「鬼ごっこ?楽しそう……」
「ぼくは、君を追いかけてきたんだけど」
うふふ、とあどけなく笑う声がして、おかっぱに切りそろえた髪を揺らしながら、黒い瞳の女の子が、ぼくを見上げて立っていた。
「あたし、花子っていうの……」
「ぼくは、シノブ」
「知ってる」
「え?」
「月山神社に最近とばされてきた風の童子様、でしょ」
「とばされてきた、とは人聞きの悪い」
「だって、あなたのことでしょ……アズマ小富士の北風の精が、アズマ連峰の山神様のお怒りを買って、こんな小さな御影山で、人間の世界とのおつかい役を命じられたって。
鳥やら狐やら、さんざん噂していたもの」
「……」
「いったいどんなことを仕出かして、山神様のお怒りに触れたの?」
可愛らしい顔をして、猛吹雪の風みたいな突っ込みをする……ぼくは、精一杯の笑顔を浮かべる。
「いろいろ……事情があって」
「あたし、御影中学校のトイレにずっと住んで、もう六十年になるんだよ。御影山のことなら、なんでも知ってるんだから」
ぼくは、こう見えても、もう三百歳。君よりは、きっと少し大人。
微笑みをさらに倍加させてみる。
「なんでも知ってる君に、是非とも聞きたいことがあって、こうして追いかけて来たわけなんだけど」
おかっぱ頭の花子さんは、まんざらでもなさそうに、ふわふわと赤いスカートを揺らし、タイルの床から十センチほど上を浮遊している。
「あら、どんなこと」
「うん、さっき君、牧村美香って子の側にいたでしょう。あれは、どうして?」
「だって、あの子……なんかほっとけないんだもん。この女子トイレの壁にバカって落書きするのなんか良い方で、トイレにこもってシクシク泣いてみたり、しょっちゅう保健室で寝ていたり、いつも元気がないんだよ」
っていうことは、マヤが話していた心配事の「中学校の友達」が、つまり牧村美香なのかもしれない。同じ美術部の友達だというし。
「まさか、君が取りついているから、彼女の元気がないっていうわけじゃないよね?」
「もうっ。トイレの花子さんは、御影中学校の子ども達を毎日見守って六十年になるんだから。さっきも、あの子が悪夢に悩まされないように、そばにいたの」
「悪夢?」
「美香ちゃんは、自分の家では悪夢に襲われてよく眠れないから、保健室で眠るわけ。保健室では、あたしが見守っている。悪い夢も入り込みにくいってことなの」
「そうだったのか。そうとも知らず、失礼なこと言ってごめん」
花子さんは、意外に真面目な顔でうなずいた。
「ところで、風の童子様。あなたの右腕の傷、ずいぶん浄められてはいるけど、なんだか邪悪な匂い……それに、あたしがいつも美香ちゃんから追い払っている悪夢とも似た匂いがするみたい」
「やっぱり、君もそう思う?」
ぼくは、マヤに取りついていた悪夢や妖魔のことを考えてみた。妖魔の声は、どこか遠くから響いてマヤを操っていた。そして、黒雲になって窓から街のどこかへと逃げ去った。
花子さんの話を聞いた限りでは、牧村美香の方が、マヤよりもさらに強く悪夢に脅かされている。美香の事情を調べれば、妖魔の正体がもっとはっきり分かるのではないか。
「邪悪な妖魔なら、退治するなり封印するなり、早くなんとかしないとね」
「美香ちゃんを助けてくれる?」
花子さんは、心配そうだ。
「もちろん」
ぼくが、色々教えてもらった礼を言って立ち去ろうとすると、花子さんは、ちょっと待って、と言って巻紙を取り出した。それに指でさらさらと何かまじないの文字を書く仕種をして、ぼくの右腕に巻き付けてくれた。
それは、ほんのり桃の花の香りがする白い紙で(正直トイレットペーパーそのもののようにも見えた)、まるで魔法の包帯のように優しい感触で、傷口を包んだ。
「キャーッ」
という金切り声に驚いて振り向くと、居残りの女子中学生が、腰を抜かさんばかりの形相で、ぼくと花子さんとをわなわな震えながら指さしていた。
「トイレにひ、人魂……ふ、二つも……」
そうか。妖怪の花子さんと話し込んでいたから、すっかり忘れていた。ぼくらは、風とも人ともつかぬ姿で、薄暗い女子トイレをふわふわ漂っていたらしい。
「キャーッ」
もう一度叫んで、女子中学生は、バタバタと駆け去っていった。
「これでまた、御影中学校の女子トイレの伝説が一つ、ふえたわ」
花子さんが、さも満足そうににっこりとした。
( シノブくん参上!− 御影山の風 − 2010 )
( 2015/7/25 加筆 )
©Tomoe Nakamura 2010
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