ぼくの大好きな喫茶店の、マスターの話。
ぼくの町の大通りを小路に入った三軒目、淡い青したガラス窓の店。
チリンと鈴の鳴るドアを開けると、壁いっぱい天井いっぱい、白い雲の浮かんだ明るい空が描いてある。
床は深い海の青。
テーブルは白くて細長い魚の形。
ガラス窓からやさしい青がこぼれると、壁に浮かんだ雲がすずしく流れ、波に浮かんだテーブル魚がキラッと光る。
小さな町の喫茶店にしては、とってもしゃれていてコーヒーの味もすこぶるいい。
BGMの波の音に心が安らぐと評判も上々、いつも来るお客さんがたくさんいる。
それなのに、店が開くのは、毎年四月から六月の三ヵ月の間だけ。
あとはドアに、「旅に出てます。店主」と手書きのプレートがかかってて、ぼくらお客をさびしがらせる。
魚の形のテーブルの、ちょうど先っぽの目の位置に、銀の砂糖つぼが置いてある。
ふたを取るとさらさらの、空色に染まったグラニュー糖。
青いガラス窓ごしの光のせい?
いや、それがホントにホントの空色の砂糖。
ぼくはいつもノン・シュガーだけど、この店のコーヒーにかぎって、銀のスプーンに二杯も入れる。
それというのもうわさがあって、空色シュガーは体を羽根みたいに軽くする、とか、片想いの相手のカップに、スプーンでこっそり一杯の砂糖を入れると恋がかなう、とか。
ロマンチストの娘たちがつくり出したおとぎ話のおまじない、たしかむかしのはやり歌にもそんなのがあった。
それでも夢のかけらにあずかりたくて、彼女のいない学生のぼくは、ひとりカップに砂糖をさらさら。ふんわりさらさら、あまい味。
閉店時間ももうすぐで、お客はたまたまぼくひとり。
いつもは座らないカウンターで、ぼくはマスターと話しした。
六月も終わり、雨の上がったいい月夜。
「明日から、旅に出るので店、閉めます」
もじゃもじゃ髪のマスターは、皿を洗いながらそう言った。
アジサイが水色に染まる頃。
「また来年の春までお別れですか」
ぼくはちょっぴりがっかりしてた。
「そうです。また来年の春までね」
半月よりもすこし丸めの気のいい笑顔。
「どちらまでお出かけですか。そんなに長く」
そうたずねるとマスターは
「いえね、砂糖がそろそろ底をつくので。仕入れがなかなか大変でして」
と不思議なことを言う。
砂糖なんてどこでも売ってる。
砂糖を仕入れに三つの季節の間じゅう、旅するなんて、そんなことってあるものか。
けげんなぼくの顔を見て、マスターはにっこり。こんな話をしてくれた。
いえね。わたしは若い頃から海・山が大好きでして。
サーフィン・ダイビング・ロッククライミングと色々やってみましたよ。で、今では山登りが一番ですね。
人の踏まない道でもない道を、一人でどんどん歩くんです。性に合うのか、何度か危ない目にあってもまだこりません。
もう十年ほども前ですが、ヒマラヤの峰をリュック背負って一人で登っていた時のこと。
朝からの粉雪が昼をすぎて、激しい吹雪になりました。
茶色の岩はだも四方八方めちゃくちゃに吹きつける雪でかき消され、わたしは一歩も進めずその場にうずくまってしまいました。
手足がしびれ、冷たいという感じもうすれて、ひょっとしてもう駄目かなと思いました。
おふくろ、ごめんな、こんなところで。
眠気におそわれながら、しきりにそう考えてましたっけ。
と、目の前を小さな野ネズミがいっぴき、鉄砲玉みたいないきおいでよぎり、すぐ先の岩かげにかけ込んで消えました。
わたしはその岩かげに、にじりよりました。
人ひとりくぐれるほどの洞穴が、岩はだに口を開けているのが目に飛び込みました。
助かる!
わたしは、死にものぐるいでその洞穴にもぐり込みました。中は暗くて、雪でぐっしょり毛皮をぬらした野ネズミが、小さくなってふるえてました。
わたしはポケットにあったタオルで、野ネズミの体をそっとふこうとしました。お前がここを教えてくれた、ありがとな、と。
野ネズミはびっくりしたのかチョロチョロと、洞穴の奥へと走って行きました。
わたしもそれについてはって行きました。奥の方が風も吹き込みませんからね。
洞穴の中はしんと静かで、うっすら明るく、なぜかその明るさが段々まして来るのです。
しだいに広く天井も高くなっていくのを不思議に思いながら、わたしは野ネズミについてどんどん奥へ進みました。
とうとう行き止まりにつきあたった時、わたしは目を見張りました。
一番暗やみがこいはずの三方の岩かげが、春のオオイヌフグリの花のような光でポーッと輝いていたからです。
こんこんと足元の岩から澄みきったオオイヌフグリの青色が湧きだして、岩かべを伝わり、はるか高みの、どこにあるのか見えない天井へとたちのぼっていきました。タンポポのわた毛みたいな白い光も、時おりそれに混じってポワン、ポワンとのぼっていました。
ああ春の空みたいだ。
わたしは吹雪にあってもう死んだのだ、と思いました。夢の中にいるのだ、と。
ところがさっきの野ネズミが、その光のただ中にぬれた体を置いて、ふくふく気持ちよさそうに毛をかわかしているんです。
小さなまぶたを閉じて、もも色の鼻をヒクヒクさせて、そっと背中にさわるとあたたかく、トクトク血のめぐりを指先に感じました。
生きてる……
なんだか鼻の奥がつんと痛くなりました。
こんな雪に閉ざされた岩山の奥で、春の青空が生まれてる……
誰も知らないけれど、生まれてる。
わたしはおふくろにこの光を見せたくて、その場に捨てられるだけリュックの中身を捨て、出来た小さな空っぽの中に、生まれたての春の青空をつめました。
そして吹雪のやんだ道を、ふんわり羽根のように軽いリュックをしょって、てくてくと無事、下山したのです。
「まさかリュックを開けると、その春の光が空色の砂糖に変わっていたというのでは」
「いえね、おふくろが年のせいか足が痛い腰が痛いとふせりがちでして。
空色の砂糖を食べたら、ずいぶん体があたたまって軽くなったと喜んでくれました。
それ以来毎年、雪のヒマラヤへ春の光をもらいに行くんです。リュック一杯分、ね」
マスターは、とても楽し気に水晶グラスを洗ってた。
「こんなきれいなお店があるのに、四つの季節のうち三つは閉店。
リュック一杯だけの砂糖のための旅、ですか」
「野ネズミに教えてもらって、たまたま見つけただけですし、そんなにたくさん持てるものではありません。やっと背中ひとつ分。
それにね」
マスターは、秘密をかくした子どもの目をしてその片方を、パチンとつぶった。
「春が過ぎると、春の光は海へ海へと漂い出て、空色砂糖の空色もすっかりうすれてしまいます。
ですから、この店も閉めるんですよ」
「ぼく達お客は、コーヒーを飲みに来るのだし、砂糖を使わないお客だっているはずなのに……」
マスターは、汚れたスプーンを次々洗う手を休めもしない。
「それでもいいです。でもね、空色の砂糖以外の砂糖は店に置かないと、わたしは決めているんです」
洗いたてスプーンがピカピカ銀に光ってた。
「ぼく以外にもその話、いろんな人にしてますか」
「ええ、いつも。閉店のわけを聞く人たちに」
ぼくはちょっぴり首をかしげた。
売れない画家さんで、年取ったお母さんの世話がいそがしく、絵を描くのも大変だとか。
そんな話も伝え聞くけれど。
三つの季節の間じゅう雪山登山の旅だなんて……
ぼくはすましたマスターの顔、ぬすみ見た。
「この店の壁の空、マスター作、ですか。」
「ええ。床の海も、青いガラス窓も、魚のテーブルも、みんなわたしの作品です」
空色シュガーは体を羽根みたいに軽くする。
ロマンチックなうわさも作品、ですか?
町のうわさは空色のかすみ。
かすみに注ぐ日の光。
マスターの笑顔って、春に似ている。
夏にも秋にも冬にもきっと、ずっとこの笑顔だから、来年また、店のドアは開くよね。
「次の春までに何かかなえたい夢、おありですか」
マスターが言った。
「ええと……かわいい彼女」
「見つかるといいですね」
「マスターは?」
「そうですね、おふくろが元気になってくれること」
「ぼくもお祈りしています」
空色砂糖を水晶グラスの真水にこぼし、ぼくとマスターが乾杯したら、虹が風にとけるみたいに、シュガーはほわんと水にとけ……
「あっ」
ぼくは思わずさけんでた。
きら、きらきら。
二人の水晶グラスから、空色にかがやく粒がくるくると、らせんを描いて飛び出して、マスター作の海色の床をすべり、わた雲の浮かぶ天井にたちのぼり……
そして光のつぶつぶは、淡い青したガラスの窓辺でサイダーがはじけるみたいな音をさせ、ぱちんぷちん、ぱちんぷちんと夏の夜空へとけてった。
「海まで流れていくんです。
さよなら、また来年の春に」
マスターが、にっこりつぶやいた。
(終)
「文学と教育の会会報 第28号」(1995/9/5発行 文学と教育の会) 掲載作品
(2015/6/13 加筆)
©Tomoe Nakamura 1995
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