耳の奥、不協和音が響く。
トンネルを抜けなければ。
このトンネルを抜けたら、さやかちゃんの家に寄って、景子先生から頼まれた宿題のプリントと学年便りを届ける……でも、足が重く、ランドセルが重い。
コンクリートを照らす蛍光灯のほの明かりが、地面を白と黒とのだんだら模様に染める。
だんだら模様は、影の階段みたいに、ずっと奥の奥まで続いている。
出口は全然見えない。この町の真ん中には、おわんを伏せた形の御蔭山(おかげやま)が、でん、と横たわっている。あたしは今、その山のふところ深く、ちょうど冬枯れのおわんの真下を、てくてくとたった一人で歩いているのだ。
さやかちゃんの家には、行きたくない……マフラーを巻いたのどに、北風が吹き込む。
ウィルスが6年1組をボロボロにした。首のとれた石のお地蔵さんを腕に抱いているかと思うほど、あたしの体は重い。
さやかちゃんは、インフルエンザ・ウイルスA型。
あたしが感染したのは、ヒソヒソ型。気がついたら潜伏期を過ぎ、体がガクガクふるえて、今にも発熱寸前。
インフルエンザで欠席する子が増えるにつれ、6年1組の女子の間では、休んでいる子についてのヒソヒソ話が流行し始め、いまや猛威をふるっている。
「あのね、ユイちゃん、ナイショだけど」
今日、昼休みにマミちゃんが耳うちした。
「さやかちゃん、本当はユイちゃんのこと、あんまり好きじゃないんだって。
いつもユイちゃんと一緒だと、他の子と遊べなくて、つまらないんだって」
とても静かに、あたしの足音が反響する。
このトンネルの照明、こんなに透きとおった白い光だっただろうか。
「さやかちゃんってさ、ちょっと勝手だよね。
転校してきてからずっと、ずうっとユイちゃんに色々教えてもらって頼りにしてたくせに、もうユイちゃんのことジャマにしてるよ」
マミちゃんの声は、キャンディおいしいね、とでも言うのと同じ、明るい声。
「だって……景子先生に頼まれただけだもん。
いいよ、あたしだって、さやかちゃんのお守り役ばっかりじゃ疲れちゃう。
たまたま家が一番近所っていうだけで、教室の席もとなり同士、行き帰りも一緒……
くっつかないで、って言いたくなるのは、あたしの方」
「だよね、そうだよね!」
マミちゃんは、にっこりして、一緒に遊ぼうよ、とあたしの手を引っ張った。
あたしは、久しぶりにクラスの女子のドッジボールに加わって、楽しい昼休みを過ごした。
その時ポッポとかいた汗が、今になって体を冷やし、寒気がする。
ウイルスが働いているのだ。
マミちゃんは、五校時の後の放課にも、あたしの机に来て、さやかちゃんのことをあれこれ言った。あたしは、うんうんとうなずいて聞きながら、教室のオルガンを弾いてくれるさやかちゃんの、いつもおっとりとていねいな、指先の動きを思い浮かべていた。
さやかちゃんは、ピアノを習っていて、モーツァルトのソナタが弾ける。昼休みには、オルガンを弾いて遊ぶのが好きな子なので、あたしは色々な曲をリクエストしては傍らに立って聴き入った。
モーツァルトもベートーベンも、古いオルガンの音色のせいなのか、さやかちゃんの弾き方のためなのか、葉っぱをゆっくりすべる雨だれに似て、一音ずつがまん丸く、トン・ポロンと流れるのだった。
さやかちゃんは、本当にあたしのこと、きらいなのだろうか。
あたしは、マミちゃんのヒソヒソ声を聞くうち、オルガンを弾いてみたくなった。
あきれて笑い転げるマミちゃんにかまわず、あたしの指は、白と黒との階段を踏み外して、よろよろくずれ落ちる酔っぱらいになった。そして鍵盤の上でもつれながら、でたらめなワルツを踊り続けた。
足元の白と黒とのだんだら模様が、光に溶けて、うすらいだ。
まるでカイコのマユの中だ。
ふっくらと白い明かりに包まれて立ち止まると、あたしは円い広場にいた。
「ほい、急患だ」
ピンピンと威勢のよい声が、耳に響いた。
「ほいきた、兄弟」
のんびり間のびした声が、それに応えた。
見まわしても、人らしい姿はなく、ぽってりした鍾乳石の列が、ぐるりと広場を取り囲み、彫刻のカーテンをひいたように静まりかえっている。見上げても、天井がどこにあるのかわからない。暗闇から、ほの明かりが降りてくる。
光は、円形広場の中央を、ぼうっと照らしていた。
その光の中に、一台のピアノがあった。
弾いているのは、さやかちゃん。指先は動いているのに、なんのメロディも聞こえない。ただの一音さえも。
「ねぇ、さやかちゃん、聞こえないよ」
言いながら駆け寄ると、さやかちゃんの姿は、すっと消えてしまった。
ピアノに見えたのは、鍾乳石の群れが形づくる白いでこぼこの岩だった。その岩の表面に細かな影が幾すじも落ちて、白黒の鍵盤そっくりなのだった。
あたしは、確かにさっきまで、御蔭山(おかげやま)トンネルを歩いていたはずだ。
ここはいったいどこだろう。
鍵盤を前に立ち尽くしていると、すぐ側で、ピンピンはねる高い声が響いた。
「弾いてみな」
あたしは、その場でくるくると回って、声の主を探した。
「ここだよ、ここ。右手の岩かげ」
目をこらすと、小豆ほどの白クモが一匹、岩のくぼみにかけた巣の上で跳ねていた。その巣ときたら、黒い絹で編んだ見事なレース細工。青白い鍾乳石のすきまで、小さな宇宙の闇に似た、黒い巣がきらきら光っている。
「ここ、ここ。左手の岩かげ」
ゆったり太い声がして振り向くと、今度はソラ豆ほどの黒クモが一匹、石のつららから糸を垂らし、ぶらさがっていた。つららの根元には、紡ぎ糸をかっちり編んだハンモック。とても丈夫そうな白い巣が揺れていた。
「おれ達は兄弟、この広場の番人だ。あんたは、急患。救急外来から回されてきた」
白クモが、きびきび言った。
「弾くと、気分が良くなるよ」
黒クモが、静かに言った。
「だって、ピアノなんか弾けない。習ったこともないし」
二匹のクモに急かされうながされ、あたしは、なめらかな石の丸椅子に腰かけた。
ひんやり冷たい石の鍵盤に指を乗せると、体にこもっている熱が吸い取られ、すうっとする。鍵盤を端から順に、人差し指でなぞった。
さやかちゃんみたいに弾けないあたし。
ばんばん、と両手で目茶苦茶に鍵盤をたたいた。
ユイ作曲、『ウィルス行進曲』。
不協和音ばかりが、がんがんと辺りに響きわたる。
さやかちゃんのメロディが、聞こえないよ。さやかちゃんの声が、聞こえないよ。
ふいにぽろぽろと涙がこぼれてきた。
マミちゃんと一緒に、さやかちゃんの悪口、言ってしまったよ。
こぼれた涙が、透明な玉になって浮き上がり、トン・ポロンと音をたてて、クモの巣にぶつかる。そのたび、黒くてきらきらした巣は高い音を、白くて丈夫な巣は低い音を奏でる。
透明な玉は、雨の雫のネックレスのように、次から次へと二枚のクモの巣にかかる。
雫の中で、ゆっくりと景色が流れていく。一粒ずつ、どこかで見た景色だ。
さやかちゃんが、教壇の前に立って、自己紹介のあいさつをしている。
景子先生があたしを呼び、さやかちゃんをよろしくね、と言う。
昼休みの教室、ぽつんとオルガンを弾いているさやかちゃん……友達は皆、遠くにいる。
さやかちゃんは、雪のつもる土地からメロディだけを連れてきた。
マミちゃんは、昼休みの校庭、いつも誰と遊び、誰と笑っているのだろう。
トン・ポロン。雫がはじける。あたしの指は、とてもゆっくり鍵盤を探す……
「あ、さやかちゃんの音」
たどたどしい指先が、いつか聞いたことのあるメロディを見つけた。
鍾乳石に反響する小さな音の行方に、あたしは耳を澄ました。
さやかちゃんは、いつまでも転校生のままでいたくなかったのかもしれない。
あたしが、先生から頼まれたお守り役に、窮屈さを感じていたように……
あたしは、さやかちゃんのオルガンの音色、本当に大好きだ。
「鍵盤の一番高い音と一番低い音って、いつもあまり出番がないだろ。
でも、いるべき場所にいる」
小さな星空に似た巣の上、白クモが言う。
黒クモが、ゆったりと応える。
「流行り風邪の高熱で、夢にうなされる患者が多くてさ、仲間はみんな出払っている。
おれ達、宿直でこの広場を預かっているわけ。あくまで応急処置だから、後でちゃんと医者へ行きなよ」
白クモが、夜間診療の先生みたいに言う。
「うん、ありがとう。少し楽になった」
「で、今日こぼした音たち、どうする?」
お薬はどうする?とたずねるような調子で、白クモが、きらきら黒い絹糸にぶら下がっている雫の列を、八本足で揺らした。
とりあえず様子をみましょう、というお医者様の口調で、黒クモがのんびり応えた。
「しばらく、御蔭山(おかげやま)にしまっておけば?」
丈夫そうな白いハンモックで、雫たちがコロンポロンと鈴のように鳴った。
あたしは、こくりとうなずいた。
一歩、外に踏み出すと、世界に色彩が戻ってきた。
くるっと振り返り、こんもりそびえた岩や樹木を見上げ、つぶやく。
「おかげさま……」
これから、さやかちゃんの家に、今日の宿題のプリントと学年便りと、あたし自身のお見舞いの言葉を届ける。
耳の奥、メロディが流れる。
トンネルを抜けた。
(終)
(2004/3 初稿)
(2015/8/13 加筆)
©Tomoe Nakamura 2004
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