「いい季節だねえ」
新緑の五月になると、いつもマヤのおばあちゃんは、にこにこ顔で言います。
「吾妻小富士に、種まきウサギの姿が見えるよ、ほら」
毎年の五月、青空に映える吾妻小富士には、茶色の山肌に溶け残った残雪が、ちょうど両耳を立てたウサギの形にくっきり白く浮き上がります。
昔から福島の人々は、この残雪を『種まきウサギ』と呼んできました。
種まき時を告げ知らせる春の使者……耳も足も、まるい小さなしっぽさえ、ちゃんとウサギの形になっていて、残雪がどうしてこんな姿に溶け残るのか、マヤには不思議です。
「どうしてだろうねえ」
おばあちゃんは、やっぱりにこにこ。
「お月様にもウサギが住んでいて、餅つきしているからねえ。
種まきウサギが毎年の春に種をまくだろう、するとその種が芽を出して育つ。
やがて秋に実ってとれたお米で、空の上でもああして餅つきするのかねえ」
*
風に乗って、六角形の白い花が舞っています。
小学校へ通う途中の、マヤの青いダッフルコートの上にも、水晶細工の花びらがふわり、ふわり。
二月四日。
立春の今朝は、空気がきりりと凍てついて、舞いおりる雪のひとひらずつも、六角形のかけらを目で見分けられるほど大きいのです。
コートの上の結晶は、すぐにくずれて、水のしずくへと変わっていきます。
マヤは立ち止まり、青いそで口に落ちたかけらに、まんまるな瞳を近づけました。
(どうして一かけらずつ、こんな不思議な形をしているのかな)
白い息をはいて、マヤは凍ってつるつる滑る道を歩いていきます。
マヤは今朝の飼育当番で、小学校で飼われている動物たちの世話をするために、みんなより早く登校しました。
降り続く雪がどんどん積もる道を踏みしめながら、マヤは首をかしげました。
(そういえば、ゆうべの夢。あの夢の中でも雪がさらさら降っていた。
一面の雪野原に、たった一本、うすべに色の花をいっぱいつけたバラの木が立っていて……
どうしてこんな雪の日にバラが咲いているんだろうって思ったら、目が覚めたんだっけ)
小学校の門をギーッと開けると、真っ白な校庭には、まだ誰の足跡もついていません。
「やった、一番乗り!」
マヤは、給食室の裏手から、昨日の給食の残り野菜が入ったバケツを運び出しました。これが、ウサギのえさです。
まっさらな雪に、ギュッギュッと長ぐつが沈みます。
後ろを見ると、運動場にマヤの足跡が青く光って一列続いていました。
飼育小屋の戸が、ほんの少し開いています。
その戸へ続くのは、マヤがいま雪の上を歩いてきた一列の足跡しかありません。
耳をすますと、小屋の奥で小さな声がしています。
「だめじゃないか、遊んでいるひまはないんだよ。もう節分の日を過ぎたのだから」
マヤがそっとのぞいてみると、飼育小屋のすみにかがみ込んでいる、一人の子どもの後ろ姿が暗がりにぽつんと光っていました。
その子は、長い黒髪を白いひもで一つに束ね、背中にゆるく流れさせています。
コトリ。
マヤが野菜のバケツを床に置くと、その子がゆっくりふり向きました。
白いセーターに白いズボン、白い靴をはいた見慣れない子は、両腕に真っ白なウサギを抱いていました。
「あなた、誰?」
「ぼくのウサギが逃げ出して、君んとこのウサギ達と遊んでいたから迎えに来たんだ」
(男の子だったんだ!)
マヤがびっくりしていると、白い服の男の子はにっこりして立ち上がりました。
そのとたん、男の子の腕からするりと抜け出した白ウサギが、飼育小屋の外へ飛び出しました。
はねていく白ウサギ、追いかける男の子。
二つの白い影が、一面の真新しい雪の原を踊るように駆けていきます。
マヤが男の子を追いかけ小屋の外へ出ると、運動場に点々と続く足跡は、やっぱりマヤの長ぐつの跡だけでした。
ゴウッと強い風が吹いて、雪煙が立ちました。
肌を突きさす氷のレースのカーテンが、マヤの足元の雪を巻き上げながら、目の前に広がります。
さらさらの粉雪は、強い風にあおられると、あっというまに地吹雪へと変わりました。
マヤは風に押し流され、その場にうずくまりました。
(うわぁ、目を開けていられないよ)
ビョウビョウと鳴る風にまじり、きしむような笑い声が、渦巻きながら響きわたりました。
雪煙がゆらめいて、きらめく白い髪をなびかせた背の高い女の人が、吹雪の中にぼうっと立っていました。
「雪どけの季節が来ないように、まぬけな春の使者の白ウサギと風の子を、氷のくさりで幾重にもしばり、硬いツララの牢屋の中にしっかり閉じ込めておこうかねえ」
「雪バアバ、乱暴はやめろ」
両足を踏みしめ、りんと瞳をみはった男の子の前後左右を、地吹雪の風が幾匹もの白い蛇になって駆けめぐり、みるみるその体に氷のくさりとなって巻きつきました。
雪バアバの笑い声が、高く低く波のように響きます。
身動き出来ずに口を結んだ男の子の目の前で、運動場いっぱいに群れる風の蛇から逃げようと、白ウサギがはねまわっています。
まるで乱反射する光のように素早く、白ウサギは、流れるようにぐんぐん追いかけてくる風の蛇たちから、身をかわし続けます。
「がんばって。つかまらないで!」
思わず声をかけたマヤの体に、重たい北風のかたまりがドスンとぶつかりました。
「お前も一緒に氷に閉じ込めてやろうかい、小娘」
マヤの耳に雪バアバの冷たい息がかかり、銀のナイフのような手が、マヤの髪の毛やコートのフードをギュウッと引っぱり、長ぐつをはいた両足ごとよろめかせました。
「逃げるんだ、建物の中に早く入って!」
氷の蛇に巻きつかれた男の子が、ほほを真っ赤にして叫んでいます。
マヤは、ここから一目散に逃げ出したいと、ふるえながら思いました。
けれども今、マヤの目の前で、とうとう風の蛇たちに追いつめられた白ウサギが、氷のくさりでギシギシ縛り上げられようとしています。
「ウサギさん!」
マヤは長ぐつで雪をけちらし運動場に飛び出すと、両腕で白ウサギを抱きかかえました。
うずくまったマヤの頭の上を、荒れ狂う風の蛇たちが右に左に行き交っています。
マヤは耳の中でゴウゴウと鳴る風を聞き、息をひそめ、きつく目をつぶって白ウサギを抱きしめました。
ぼんやりと気が遠くなってきた、そのとき……
「ウサギさん……あったかいよ」
マヤの両腕の中で、ぽうっと金色の日だまりが広がり、白ウサギがふわりと一まわり大きくなりました。
「守ってくれてありがとう……でも、大丈夫。
ぼく、見かけほど弱くないよ。
だって、時の流れが味方だもん」
淡い金色の光の帯をひき、白ウサギがマヤの腕からぴょんと雪の原へはね下りました。
「待っててね、冬のあとには、春が来るよ」
まるで金色の日差しのように白ウサギが駆けると、吹雪が弱まり、風の蛇たちもだんだん静かになりました。
がんじがらめにされていた男の子が、ぐっと口を結んで腕に力を込めると、無数のかけらがきらきら砕けちって、氷のくさりがとけました。
男の子は、束ねた黒髪をゆすって駆け出し、校庭の片すみで雪に埋もれている木の枝を一本、折り取りました。
白い服の男の子が片手を高くあげ、木の枝をかざすと、小枝に綿の玉のように積もった雪が、ふんわり七色にかがやきました。
(あっ、魔除けの団子刺しみたい……)
マヤの家では小正月に、木の枝に米粉の団子をいくつも刺した「団子刺し」をおばあちゃんが作って、神棚に飾ります。
今年はマヤが、米粉の団子に染め粉で色をつけました。
「おばあちゃん、きれいに染まったよ」
「ああ、春の色だね」
桃色はレンゲの花、黄色はタンポポ、空色はオオイヌフグリ、若草色はヨモギの葉……
やがて咲く野の花を思いながら、マヤは白いお団子に筆でていねいに色をつけました。
今、男の子が手にしている雪の枝は、その団子刺しにそっくりで、枝に積もった雪の放つ柔らかな虹色は、まるで春の野原の花や草、青空の色を、光の絵の具で染めたようです。
そして、白い雪の原に木の枝をかざして立つ男の子のきりっとした横顔、赤いほほ……
(ゆうべの夢……雪の中でうすべに色の花を咲かせていた、あのバラの木とそっくり)
男の子が、七色の光を放つ枝を高くふりあげると、鉛色の雪雲から小さな青空がのぞき、いつしか吹雪はやみ、風の蛇や雪バアバの姿は消えていました。
澄みきった声が、風に乗ってひびいてきます。
「雪バアバは乱暴だけど……
ひとかけらの雪の芯には、一粒の春の種……
バアバの雪が厚く積もって、たくさんの春の種が地面に宿り、あたらしい光の結晶になるんだよ……」
さらさらと雪まじりの風が校庭を吹き抜け、気がつくとマヤはただ一人、銀のすそをひいた吾妻小富士を見上げて、立っていました。
(まだ見えない。でも、もうすぐ……)
吾妻小富士の山肌は、かがやく雪におおわれています。
今日は二月四日、立春の朝。
(待ってるよ、種まきウサギさん?
春の約束を、ありがとう……)
(終)
(2006/9 初稿)
(2015/7/27 加筆)
©Tomoe Nakamura 2006
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