「 文学と教育 ( 本誌&会報 ) 」掲載作品     菩 提 樹  (ぼだいじゅ)

 
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− 菩 提 樹 −

 

 

 

 夏も終わりの、風のさわやかな日。

 

 売れない作曲家のロンは、街でアルバイトでもさがそうと、午後の並木道を自転車で駅に向かっていました。

 田舎の駅に停まる電車は、あまり多くありません。ロンは腕時計をにらみながら、人影のない小川にそった一本道を、大急ぎで駆けぬけていました。

(今日にでも仕事を見つけなくては。パンの耳とコーヒーだけの食事ばかりじゃ、いい曲なんて出来ないよ)

 ぐいぐいとペダルをこぐ足に力をこめると、秋めいた風がほほをなで、耳をくすぐっては飛び去っていきました。

(家賃だろ、水道、新聞、電気代。

 さあて、どうやってかせいだものか。皿洗い、ウェイター、ビルの窓そうじ……ピアノの家庭教師のくちでもあればいいけれど)

 鼓動がいつもより熱く体中で鳴り、道端の木々の葉ずれのリズムが耳に心地よくはじけて、ロンはのんきに口笛を吹き始めました。

 ロンは、いつだって口笛を吹いています。

 好きだった女の子にバーイとウィンクされて

「売れない作曲家なんて、ねえ」

と、小鳥みたいな声が遠ざかっていってしまったときも、そのすぐ後、バイト先のレストランでガチャンガチャンガチャンと白い大皿を二十枚も割ってしまい、クビを言い渡された帰り道でも。

 そして今日は、ロンの低い口笛が、じつによく響きました。空気がそっと手助けしてくれているみたいに。

 

 さわさわさわ……

 

 大きな風が波のように、小川のほとりに立つ大木のこずえを吹き過ぎていきました。

 それはどっしりとした菩提樹で、ロンには見慣れた木でしたが、ふとロンは、その太い幹から伸びた一本の枝に目をこらしました。

 年老いた男の人がその枝に腰をおろして、竪琴を鳴らしているではありませんか。

「おっとっと」

  ロンは、自転車に急ブレーキをかけました。

 ひときわ濃い影を、何かのはずみで人の姿に見間違えたのかもしれません。

 ロンの頭の上には、木の葉の丸天井が広がり、そのすきまから一面に、青空のかけらがぽろぽろと散りこぼれてきました。

 ロンは大きく息を吸い、目を閉じました。まぶしくてたまりませんでした。

 そして、目をこすって見上げると……

 やっぱり木の上に竪琴弾きが腰をおろしていました。

 年老いたヒョロっとした男で、髪とひげは灰色。茶色のマントをはおった姿は、古風な異国の吟遊詩人のよう。

(そんな。絵本で見たのとそっくりだ)

  黒っぽい木製の小さな竪琴を抱いたその人は、幹の分かれ目に腰かけ、風にあわせて弦に指を走らせ、こずえと一緒に何か歌っていました。

 腕時計が気にはなりましたが、ロンは自転車をおりました。

 そうせずにはいられませんでした。

(なつかしいなあ。どこで聞いたんだっけ。

 この歌を、たしかに知っているのだけれど……)

 音楽の学校でならったどんな音階にも、あてはまらない音階。

 ラジオから流れてくるどんなメロディにも、似ていないメロディ。

 それなのに、ロンは竪琴の奏でるしらべを口笛で吹き鳴らすことさえ出来ました。

 見知らぬ吟遊詩人とすっかり息を合わせ、あざやかにリズムに乗って……

 

 さわさわさわ……

 

「あっ、いない」

 ロンの口笛がやみました。

 ロンが耳傾けていたのは、大木の奏でる葉ずれの音でした。

 見上げれば、菩提樹の葉が日の光にひるがえっているばかり。

「あれは誰だったんだろう」

 ひびわれた厚い樹皮に手のひらを押し当てると、太い幹から日のぬくもりがロンに伝わって来ました。

 

 さわさわさわ……

 

 また、風が吹き過ぎました。

 あわてて見上げると、たった今竪琴弾きのいた枝に、なんとロンにそっくりな若い男が腰をおろしているではありませんか。

 やせたほほ、大きな瞳。

 ぼさぼさの髪、しわくちゃの白いシャツ。

 お世辞にも見栄えがよいとは言えないその姿は、さっきあわてて部屋を飛び出す前、ちらっと見た鏡の中のロンそのまま。

 もうひとりのロンは、風に耳傾けるように首をかしげ、あの黒い小さな竪琴を手にしていました。

 そのかたわらには白い用紙の束が見え、一枚ひらひらと今の風に誘われて、ロンの足元へと落ちてきました。

 拾い上げると、それは書きかけの五線紙でした。不器用なペンが、生まれたてのメロディを懸命にとどめようとしているのが、ロンにはありありとわかりました。

 落とし物のゆくえを目で追って、ロンそっくりな木の上の男が、その若くてやせた顔をこちらに向けました。

 問いかけるような、まっすぐな眼差しがロンをとらえました。

「君は、だれ?」

 思わずささやきかけたロンの声は、巻き貝の奥の海鳴りみたいにしわがれていました。

 木の上の男は、そのまなざしをロンの手にある楽譜へと向けました。

 男の手がゆっくりと動き、竪琴の弦をはじきました。

 力強い音。

 音によって、男は自分の姿を風に彫刻しているかのようです。

 風に乗って、「だれ?」というささやきが四方八方からロンを取り巻いては、さらさらと流れ去っていきました。

「知っているよ、この歌を」

 ロンの叫びは、四方八方にこだましました。

 風に刻まれた透明な男の顔が、四方八方からロンを見つめました。

 ロンのほほは熱く、鼓動が痛いほど早く鳴りました。

「ああ」

 ロンの叫びはため息に変わりました。

 手にした書きかけの楽譜は、ただの虫食いの木の葉でした。

 記されかけていた五線紙の上の音譜たちは、ぽっかりあいたジグザグの虫食い穴。一葉だけ季節を追い越して色づき、仲間より先に風の舞台へと舞い出たのでしょう。

 乾いた木の葉は、ロンのため息でピルピルふるえました。男のペンをたどって、あのメロディをしっかりつかまえておきたかったのに。

 

 

 さわ、さわ、さわ……

 

 

 風がまた、菩提樹の大木のこずえを吹きすぎました。

 そして、二またに分かれた幹の上に……

 今度は、やせた男の子が瞳をまんまるにして腰かけていました。

 片手にかじりかけのリンゴ。

 その子は、自分のひざに古風な黒い楽器を見つけ、首をかしげてあたりを見まわしました。そして、にっこり笑って竪琴をなで、リンゴのかけらを一口でほおばると、楽器をかかえあげて胸とひざと片手とで支え、一本の弦を指ではじいてみました。

 きらきらした音が浮かび上がり、あまずっぱいリンゴの香りをふくんで、どこか遠くへ流れ出て行きました。

 男の子は次々に新しい弦をはじいては、新しい風の色を見つけました。

 男の子の瞳は、林のドングリの実のようにまあたらしい光でいっぱいでした。

 ロンも、自分がまるでその子になって、初めて買ってもらった銀のハーモニカを吹いてみた時や、夕焼け色の羽根をしたトンボを原っぱ中を駆けてつかまえようとした時の、なつかしいわくわくした気持ちで胸がいっぱいになりました。

 それなのに……

 

 まばたきした後でロンの目が満月のように大きくなり、それから新月のようにかげって閉ざされました。

「いない。どこへ行ってしまったんだ」

 ロンは、首がいたくなるほど大木を見上げました。それからそっと首をふって、日なたのにおいのするザラザラの幹に頭をもたれさせました。

「最初からぼくのほかに誰もいやしない。

 ただ、風が吹いているだけだ」

 大好きだったのに、ロンのことを大好きにはなってくれなかった女の子。

 冷たい水で手が赤くはれるまでお皿を次から次へと洗い続けたあげく、おはらい箱になった仕事。

 さびついて音の出なくなったハーモニカ、アスファルトの駐車場にするためにブルドーザーでつぶされた原っぱ……

 ポケットにつっこんだ手のひらは空っぽなのに、今、その空っぽがロンにはひどく重くてなりませんでした。

 なぜって、なくしてしまってロンのところにはもう戻ってこないものばかりで、ロンの両手はあふれそうだったからです。

 音楽の勉強をするために出てきた故郷は、とても遠くにありました。

 ロンは、ゆっくりと口笛を吹き鳴らし始めました。

 ロンの顔は悲しそうなのに、ロンの口笛は高い空でくるりくるりと輪を描いて飛ぶトビのように、どこかのんきに響きわたりました。

 ロンの部屋にはピアノもバイオリンもなく、ロンの帰りを待っていて、ロンの作った曲に耳を傾けてくれる恋人もありません。

 それでもロンは、世界中のオーケストラと世界中の恋人たちが何度もアンコールしてくれるような曲を、いつかぜひ作ってみたいと願い、世界中の誰がふりむいてくれなくても、ロンの口笛を大好きになってくれる可愛い女の子がいつかたった一人、ロンの前に現れることを夢みていました。

 

 さわさわさわ……

 

 菩提樹の枝の一本一本がしなやかに風の形にたわんで、呼吸のようなリズムを楽しげに刻みました。

(こうしてどれだけの年月を、この木は立ち続けてきたのだろう)

 ふとロンは口笛をやめました。

 菩提樹の太い幹にぼさぼさ頭をもたれさせたまま、ぼんやりと立ちつくし、こずえを渡る風の音に耳をすましました。

(ぼくが生まれ、旅をし、何かをなくしては夢を見てきたその間、この木はここに立ち続け、この木を揺らして風は歌い続けてきた。

 いつも変わらぬ調べで、ずっと)

 あまり静かに耳をすましたので、チクタクチクタクと腕時計が時をきざむ音さえ、聞こえてきたほどでした。

 

 チクタク、チクタク、ちく、たく……

 

 聞こえてくるのは、秒針の音、風の音。

 とっくん、とっくん、ロンの鼓動が重なりました。

 そのときです、ロンは、ポケットにあてもなく突っ込んでいた手を出して、はっとしたように菩提樹の幹にある幾すじものひび割れをなぞりました。

 そして、ふいに太い太い老いた幹に両手をまわして、力いっぱい抱きしめました。

 まるで愛する人を抱きしめるように、ロンは長いこと菩提樹の大木を、両手をいっぱい広げて抱きながら立っていました。

「あの竪琴は、ぼくのものだ。

 ぼくはずっと、あの竪琴の音色をさがしていた」

 はるか時の彼方、まだロンが生まれる前のある日のこと……

 黒い竪琴を抱き、ひっそりと各地を巡り演奏した吟遊詩人の男を、この菩提樹はかつてまだ若々しかったこずえの下に、いこわせました。

 そして吟遊詩人は、こずえを見上げ、風と木の調べを竪琴の曲にして、奏でたのではなかったでしょうか。

「ぼくには、それがわかる。

 なぜなら、あの竪琴がぼくのものだからだ。

 ぼくには、それがわかる。

 あの調べは、昔、ぼくが作った曲だ」

 ロンは、他の誰にも聞き取れない、しずかな低い声でつぶやきました。

 ロンのるり色の瞳は、みがきあげた宝石のようによく澄んで、こずえや空や道や影を浮かべ、そのすべてを深い青で包んで輝きました。

 ロンが生まれる前から風は吹き、こずえは歌っていました。

 そして今も風は吹き、こずえは歌っています。

 ロンが世を去った後にも風は吹き、こずえは歌い続けていることでしょう。

 そしてロンは、いつも変わりなく木々と風の奏でる調べに心をうばわれ、耳をすます者なのです。

 顔や体は違うかもしれません、言葉や名前だって違っているかもしれません。けれど。

 あるいは何百年か昔、異郷で竪琴を弾いていた男は、ロンでした。

 あるいは未来、どこかの国で、ある日木々のそよぎに心ひかれる男の子は、ロンです。

 ロンが風に宿る調べを愛するかぎり、木々が風にそよぐかぎり、あの竪琴とともにロンはロンであり続けるでしょう。

 

 空っぽのロンの両手にすっぽりと、まっさおな空がおりて来ました。

「ありがとう、菩提樹。

 ぼくに、ずっとさがしていた調べを教えてくれた」

 ロンはもう一度、あの幹がふたつに分かれた所を見上げました。

 そして、書きかけの楽譜を手にロンを見つめて微笑んでいる男と、瞳を見合わせました。

 今度は、鏡に映したようなその姿を見ても驚かず、ロンはにっこりしました。

 ロンは、自分自身を知ったのです。

「君は、街へ行く電車に乗り遅れた」

 木の上の男が言いました。

「いや、いいんだ。それよりも、ぼくには腕時計の秒針がどんなに可愛らしい音をたてるか、わかったんだから。

 初めて買ってもらって耳をくっつけた時いらいだよ」

 ロンは、男に腕をかざして見せました。腕時計のまるいガラスに青空が映り、日光がきらきらあふれ出しました。

 男は笑いました。

「のんきだな。

 今日は君に渡すものがあるんだが」

 男は、木の上から身軽に、空気のように飛んで、ロンのかたわらに立ちました。男の体からは、緑の木の葉のにおいがしました。

「のんきな君のことだ。きっと忘れているだろう。

 今日は何の日だったっけ。ほら、受け取れよ」

 男の言葉が響いたとたん、ロンの広げた両手にずっしりと、あの古い楽器が乗せられていました。

 風が吹き、まばたきする間に男の姿は、きらめく日の光にのみこまれていました。そして竪琴は……

 竪琴は、ロンの腕の中にありました。

 古びて黒ずんだ木製の、まぎれもないロンの楽器です。

 ロンは、舞いおりて来た野の鳥を抱くようにそっと両手を胸の前であわせて竪琴を抱き、首を上げて道を、木々を、空を見ました。

 

 見慣れた風景なのに、そこにはまるっきり新しい世界、歌うにふさわしい世界が広がっていました。

 大地に深々と張りめぐらされた菩提樹の根元で、古ぼけた自転車が銀色に光りました。

 さて、これからロンは、竪琴を抱いてどこへ行くのでしょうか。

 ふとロンは腕時計の表示をながめ、小さな日付けに目をとめました。

 

 その日付け……

 そうです、ロンはやっと気がつきました。

 今日という日、ロンは生まれたのだということに。

 その日は、ロンの誕生日。

 夏も終わりの、風のさわやかな日の出来事です。

 それから幾年も、幾十年もが過ぎ、いっそう年輪を加えた菩提樹の根元に、あるとき小さな紙きれが舞いこみました。

 それは地元のニュース紙で、小さなかこみの記事に、ひとりの老人の死が報じられていました。

 その老人が、子どもたちに楽譜をくばり、竪琴を奏でて聞かせて「青空の吟遊詩人」と呼ばれていたことも……

 小さなニュースの切れはしは、菩提樹のこずえをくるくるとただよい、ふわりと大地に落ちました。

 すると、その紙きれを日に焼けた小さな手が拾いあげました。それは、どんぐりのようにまん丸い瞳をした男の子の手でした。

 男の子は、拾った紙きれでヒコーキを折り始めました。

 けれどその紙ヒコーキが折りあがらないうちに、また風がさわさわと寄せてきて、未完成の紙ヒコーキは男の子の両手を離れ、青空へ……

 まるで、とうとう完成しなかったけれど見えない翼を持っていたロンの音楽のように……

 紙ヒコーキの白い翼は軽々と風に運ばれて、明るい空へと遠く消えていきました。

 それもまた、秋のはじめのさわやかな風が吹いている日の出来事です。

                  

 

            (終)

 

「文学と教育の会会報 第30号」(1996/9/20発行 文学と教育の会) 掲載作品

 

 

 

 

 

(2015/6/9 加筆)

  

©Tomoe Nakamura 1996

 

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