S u b c u l t u r e  (サ ブ カ ル 雑 記) ま ん が ・「名 探 偵 コ ナ ン」 論

 
→ HOME
→ 名探偵コナン論
→ 石ノ森章太郎
→ 
→ 
→ 
→ 
 
→ サブカル雑記へもどる
→ まんが(2)へ
→ アニメ
→ 特撮ヒーロー
→ ライトノベル
→ 音楽




− 「名探偵コナン」論 −

 

 

 

青山剛昌「名探偵コナン」論

活字離れの子ども達の、読書への糸口のひとつとして、マンガを見直す

 

 

1.舟崎克彦著「ピカソ君の探偵ノート」の類似作品「名探偵コナン」

 

 季刊雑誌「ぱろる5」(一九九六年、十二月)の中で、舟崎克彦は憤りをもってこう記している。

 

「最近『パロル舎の〈ピカソ君の探偵ノート〉そっくりのマンガが売れてて、TVアニメにもなってるらしいよ。放っといていいの。』という声が読者から寄せられた。早速、そのシリーズの一刊目を買って拝読させて頂いたが、主人公の年齢こそ違え、状況設定は極めて似ている。」

 

 子どもの頃「ぽっぺん先生」シリーズや「ババロワさん」等の短編を楽しく読んだ記憶のある舟崎ファンの私は、この文章に興味を持ち、早速「ピカソ君の探偵ノート」を一冊、パロル舎から取り寄せた。

 そして舟崎克彦が、自作の状況設定を盗用したのではないかと怒りを向ける対象のマンガが、青山剛昌描く「名探偵コナン」であることを知った。盗作問題をひとまず別に置いてもなお、一方は児童文学として一方はマンガとして描かれ出版された二作の「少年探偵物語」は、改めて多くの問題を考えさせるきっかけを私に与えてくれた。

 児童文学とは、少年マンガとは、そして子ども達が求める物語とは、一体なんなのだろう。

 

 そうした大きな問題に踏み込む小さな第一歩として、この論考では、「ピカソ君の探偵ノート」と「名探偵コナン」との作品比較を試みると同時に、子ども達をめぐる、マンガを含む読書の状況、その可能性について考察していきたい。

 

2.マンガをきっかけとして、活字の読書体験の広がる可能性

 

 「名探偵コナン」は週間少年サンデー(小学館)誌上で一九九四年より掲載され、今も(一九九七年六月)連載中の「本格推理マンガ」と銘打たれた作品である。一九九六年一月からアニメ化されて高視聴率を得、一九九七年四月に劇場用長編アニメが公開された。

 原作コミックは現在一四巻まで刊行され、累計三千万部を売る大ヒットが報じられている。

 一方「ピカソ君の探偵ノート」は、一九九四年十一月パロル舎から刊行された。「ピカソ君の探偵帳」(一九八三年、福音館)を加筆訂正・改題した作品であり、「名探偵コナン」に先行している。

 まずこの二作品を並べて私が素朴に思ったことは、アイデア盗用問題の行方ではなかった。もし自分が図書館司書だったなら、人気コミックをきっかけに、それと似た部分のある「ピカソ君の探偵ノート」という児童書を子ども達に紹介してみるだろう、という呑気な企てであった。

 残念ながら私は司書でもないし、「ピカソ君の探偵ノート」を一読した後には、二つの作品世界はかなり感触の違う内容であることから、「コナン」を夢中で読む子がピカソ君をも好きになるという、そんな単純なものではないだろうと思い直すに至った。

 しかしながら、たとえそれが舟崎克彦のユーモア小説「ピカソ君の探偵ノート」ではないにしても、マンガ「名探偵コナン」の読者である子ども達の幾割かが、推理の魅力に引き込まれ、シャーロック・ホームズや明智小五郎、怪盗ルパンなどが活躍する推理小説の世界へと誘われ、次第に読み進んでいく姿は、無理なく想像出来るものだった。

 単行本第一巻の青山による作品紹介の言葉は、次のようなものである。

「とにかく子供の頃から探偵が大好きで、書店で『ホームズ』や『名探偵』の文字を見かけると、思わず手にとってしまうぐらいはまっていました。そんなオレが知恵をしぼって作ったこの作品、はたしてあなたは、コナンより先に事件を解くことができるかな?」

 作品の主人公コナンこと工藤新一は、常日頃口癖のようにホームズへの憧れを語り、ホームズの推理の見事さを手本として自らも「平成のホームズ」を目指す少年である。

 謎の組織の毒薬によって高校生から小学一年生にまで体が縮んでしまい仮の名を名乗ら ざるを得なくなった時、彼がとっさに思いついたのはコナン・ドイルと江戸川乱歩とから半分ずつを採った「江戸川コナン」であった。

 彼はいつも同級生で幼なじみのガールフレンドからは、「推理おたく」「推理ばか」とけなされているほどの、推理小説マニアである。

 世界的に有名な推理小説作家の息子で、推理小説がぎっしり詰まった書架に囲まれて育 ったという設定の、この主人公工藤新一のホームズへの熱中ぶりには、作者青山剛昌の少年期の読書体験が色濃く投影されている。

 ところで、コナンの単行本一巻〜十四巻のカバーのそれぞれには、「青山剛昌の名探偵図鑑」という、推理小説の小さな紹介欄が設けられている。

 ここではホームズ、オーギュスト・デュパン、フィリップ・マーロウ、ポアロ、クイーン、明智小五郎、金田一耕助、といった古今東西の名探偵たち、そしてその作者、作品内容などがイラストを添えて語られているのだが、そのコメントの一つずつに小説の探偵たちに寄せる青山の深い愛着が感じられ、読書のきっかけを子ども達に与え得る内容である。

 例えば一巻、シャーロック・ホームズの場合。

「小説家コナン・ドイルが生み出した名探偵の代名詞ともいえる不滅の探偵、それがシャーロック・ホームズだ!! 常に冷静沈着な彼は、優れた観察力と推理力の持ち主で、剣術の達人である。暇な時は、ベーカー街221番地Bの自室でパイプをふかし続けているが、依頼を一度受けると、獲物を狙う狼のごとく、エネルギッシュに活動を開始する!!難解な事件ほど知的興奮を覚える彼は、女性にはあまり興味がないらしい……得意の『初歩的な事だよ』のフレーズでいつも相棒のワトソン博士はいじめられているが、愛読者の私もその一人だ。(私のオススメは『四つの署名』)」

 ほんの小さな記事であるが、コナン・コミックス三千万部の売上状況を考え合わせたとき、その三千万部の一冊ずつのカバーに刷られた推理小説紹介コメントは、かつての青山がそうであったような推理小説好きの少年少女を、日本全国に数多く生みだすきっかけには、十分なり得るものと考えられる。

 

 3.本格推理マンガの大ヒット

 

 高額納税者の順位を報じる、毎日新聞(一九九七、五月一七日付朝刊)を見てみよう。

「一六日公示された『長者番付』は、全国百位以内にランクされた音楽プロデューサーの小室哲哉さんや、人気漫画『名探偵コナン』の作者の青山剛昌さんらが、ジャンル別に見た番付でも席巻する勢い。」

「青山さんは『名探偵コナン』がヒットし、単行本は累計三千万部を売り上げている。」

 作家、俳優、タレントといったジャンル別長者番付の「その他」の項に、四位青山剛昌、六位さとうふみや、の名が並ぶ。さとうふみやは、週間少年マガジン(講談社)誌上で「金田一少年の事件簿」を連載中の人気漫画家である。

 一九九六年長者番付(その他の項)の十位以内に二人の漫画家が名を連ね、そのどちらもが本格的な推理を盛り込んだ少年探偵物語を手掛けていることは興味深い。

「金田一少年の事件簿」は、まずTVドラマシリーズとして放映されて人気を呼び、一九九六年冬にはアニメ作品として映画公開、TV用アニメシリーズもコナンと並び一九九七年春からスタートした。

 原作のアニメ化に伴い、文具、菓子、CD、カード類など関連グッズが売り出されるのは常のこと、さらにコナンの場合・バンダイからトランシーバー、ゲームソフト等、玩具も積極的に売り出されている。

 また、季刊「ぱろる6」(一九九七年四月)の中の、「書店・取次店・専門店九六年度売上ベスト10(児童書)」の、ジュンク堂書店(京都店)の場合、モモ、薄紅天女、星の王子様などの児童書にまじって、「五位、名探偵コナン推理クイズブック」があげられている。コミック以外の児童書コーナーでの、推理クイズブックの人気がうかがえる。その内容は、推理クイズ、パズル、暗号解読などから構成されており、子ども達の知的遊戯の対象となるものである。

 ここには、TV、映画、コミックといった華やかなメディア・ミックスのヒット・キャラクターとしてPRされる少年探偵の姿が浮かび上がる。

 しかし、原作漫画を読むかぎり、コナンは青山の推理小説好きを反映してなのか、細かめのコマにセリフの吹き出しがたくさん書き込まれ、吹き出しの中には活字がびっしり並んでいるといった、最近のマンガとしては地味な印象の画面構成である。そして、飛ばし読みのきかない緻密な推理の展開を、説明的な手堅い絵柄で読者に読ませていく、むしろオーソドックスな匂いのする少年漫画である。

 金田一少年にも同様の印象を受ける。

「金田一耕助の孫」であるハジメ少年は、横溝正史の描くのにも似た伝奇的猟奇的連続殺人の謎を次々と解き明かしていく、いわば小説世界の手法のオーソドックスな後継者、マンガの世界に移り住んできた推理小説の申し子であるように思われる。

 今人気の推理マンガと、その「活字を読み進む」小説的な作品世界の手法との、関わりの深さについて考えるために、まずひとつの小さな例をあげよう。

 コナン・コミックス九巻の「FILE.6熱いからだ」、図書館を舞台にした殺人事件を描いた作品中の、ひとつの小さなコマ絵である。

 コナンは、「冬休みの読書感想文出してないの、コナン君だけだよ。」という級友の小学一年生トリオに連れられて、図書館の児童書コーナーにやって来る。

 見かけは子どもでも頭の中身は十六歳の江戸川コナンは、

「・・ったく……どれもこれもくだらねー本ばっかだな……こんなん読んで感想文を書けっつーのかよ!」

と、児童書の書棚を眺めつつ冷めた顔で内心ぼやいている。そのくだらねー本はといえば、「怪盗ボーイ」「さむらい小僧」「不思議なバット」といったタイトルの読み物である。

 そして、もしここで読者が青山剛昌の過去の作品を知るならば、クスッと笑ってしまう場面だろう。なぜなら、コナン言うところの「くだらねー本」、書棚に並ぶ児童書の背表紙に書かれているタイトルこそ、青山剛昌のこれまで書いてきた「マジック快斗(怪盗ボーイ)」「YAIBA(さむらい小僧)」「四番サード(不思議なバット)」といったマンガのタイトルを、児童読み物風に書きかえただけのものと気づくからである。

 これは本当に小さなコマの小さないたずら描きかも知れない。けれど青山剛昌のマンガ世界の志向してきたものをよく表現しているようにも思われる。青山剛昌のマンガは、たしかに少し装いを変えただけでそのままオーソドックスな児童向け活字読み物へとスライド出来る内容がほとんどであり、彼はデビュー後十年、その姿勢をずっと変えないでいるむしろ地道で正統派の少年漫画の書き手であるように思われる。

 怪人二十面相にも似た変幻自在の少年怪盗が活躍する「マジック快斗」、剣術修業に励む少年の冒険物語「YAIBA」、人一倍の努力家でありながらプレッシャーに弱くて試合で実力を発揮出来ない少年の成長を描く「四番サード」。これまでの青山の作品の特徴は、物語としての妥当性が常に、マンガにありがちな極端にエスカレートしていく傾向を抑制し続け、時に軽やかで初々しい叙情さえも画面に漂わせる、そのネーム力にあった。

 完成度の高いネーム(漫画の絵ではなく、文字の部分)が、シンプルな絵柄を支えて独自の世界を生んできたのである。

 マンガ絵の表現そのものに突出した意外性を持たず、順を追って納得できる結末へと向かう物語は、あたかもマンガの技術を駆使した「少年読み物」といった趣きであり、多分そのために彼の作品はこれまで一定の人気を保ってはいても、劇画タッチの作品などに比べるとある「地味さ」を帯びていた。そして、破綻のない物語作りの技術が、推理マンガとして花開いた感のある今回の「名探偵コナン」の大ヒットは、それがマンガであるからというよりもむしろ、本格的な推理の面白さを少年少女読者に提供してくれる充実した「読み物」としての魅力に支えられている面が大きいのでは、と考えさせられる。

 少年探偵物語がマンガとしてアニメとして大ヒットしているが、その原作者は推理小説の虜となった少年期を過ごし、多くの読書体験に支えられながら作品を生み出している。

 青山のネーム力は、もちろん才能もあるのだろうが、それ以上に豊富な読書体験を積んだ者の底力を感じさせる。

「まんが家を目指すのなら、まんがばっかり描いてないで、いろんなモノを見たり読んだりすることも大切だ!! そういう意味でも学校の勉強って大事だね。

 面白いまんがを読んだり、みんながいいって言ってる映画を見たりして、何でその作品が面白いんだろうって研究すれば、その表現方法やアイディアを自分の作品に活かせるんじゃないかな? かなり難しいことだから、すぐにはできないとは思うけど、これは才能じゃなくて訓練だと思うんだ。」

 漫画家を目指す少年読者へ向けて、週間サンデー誌上で発言している青山の言葉には、

「学校の勉強って大事だね。」

と教育的なニュアンスすら含まれている。

「まんがを描くために、いろんなモノを見たり読んだりすることが大切」

とも青山は述べている。

 つまり青山の作品世界は、彼が長期にわたって蓄積してきた他の多くの作品のエッセンスを、マンガという形で少年少女読者にフィードバックするために、表現方法やアイディアを絶えず模索する営みの中、生み出されてきたものといえる。

 このような世界を、マンガだから、と一言で片づけるべきではないし、子どもの読書について考える際、「娯楽読み物で育った、娯楽読み物的作品世界を描く書き手」の存在、その存在を支える子ども読者からの大きな支持、は翻って活字の児童読み物の在り方を照らし出す一つの視野をも与えてくれる。

 

4.ユーモア探偵物語と本格推理マンガ

 

 先にあげた舟崎克彦の「ピカソ君の探偵ノート」の冒頭と、「名探偵コナン」第一巻の冒頭とをここに並べてみよう。

 

 四月八日、木曜日。午前八時二十八分、桜町警察第三派出所の新任巡査、出口秀之進(28)は、夜勤明けのはれぼったい目をふと表通りに向けたとき、幻を見たと思いました。目のさめるようなトマト色のスポーツカーが、風のように視線のさきっちょをちょんぎっていったのです。けれど巡査はそのトマト色におどろいたのでも、スポーツカーの快速ぶりに仰天したわけでもありません。いっしゅんまぶたに点滅したその運転席には、なんと、ランドセルをしょった小学生がゆうぜんとハンドルをにぎっていたのです。

「うそ、うそ……!!」

 巡査は小さくさけんでから、あわててまぶたを二、三回こすり、いすをけって表通りにとび出しました。(第一章 ピカソ君登場)

 

「そう……(ゴロゴロゴロ、と雷鳴)

 犯人は、窓から窓へ飛び移ったんですよ……みなさんが被害者の悲鳴を聞いて駆けつける前にね……これで窓の外に足跡がなかったわけがおわかりでしょう……」

(カツカツカツ、と少年が室内を歩き回る)

「バ、バカな!?」

「あそこは、5mも離れているのよ!!」

「壁づたいに屋根に登れば、2mもありませんよ……この家の特殊な構造を知らなければ、思いつきませんがね……そして、あの時間に誰にも怪しまれずに家中を動きまわれた人物はただ一人……」

「は、早くいいたまえ!! いったい誰だね!? わたしの家内を殺した犯人は!?」

(車椅子の老人が血相を変えて叫ぶ、少年は微笑む)

「それは……(稲光が少年の顔を照らす、少年は老人を指さす)

 御主人、あなたです!!!」

  (一巻 FILE1.平成のホームズ)

 

 作品の冒頭部には、しばしばその作品世界の全体像が凝縮されているものである。

 ピカソ君の書き出しでは、日常ありえない事態に慌てふためく巡査と、ランドセルをしょってトマト色のスポーツカーを悠然と疾走させるピカソ君とがユーモラスに描かれている。

 一方、コナン第一話の書き出しは、いきなり雷鳴轟く洋館の一室で殺人事件の謎を推理する少年の姿から始まる。

 この書き出し数行からも両者の作品世界の違いが幾分うかがえるであろう。

「ピカソ君の探偵ノート」がナンセンスなドタバタ事件を解決するピカソ君の友情とユーモアに満ちた冒険である一方、「名探偵コナン」は次々に起こる殺人事件において犯人が仕組んだ巧妙なトリックを、コナンを案内役にしながら読者にも謎解きさせてゆく仕組みの探偵推理物語である。

 舟崎克彦が問題視しているピカソ君とコナンとの設定の類似性も、両作品の世界の違いの中で、微妙に異なるキャラクターを演出する。

 まずピカソ君は不運な事故のために、十三年間の長いイギリスでの闘病を強いられ、二三才の青年でありながら日本の義務教育では小学六年生の立場にある。治療薬の作用で体の成長が止まり、外見は小学生のままだが心は大人である。薬の作用で体温が低く、夏でも三つ揃いのスーツに革のブーツを履いている。小学校生活の傍ら、将来の自立のために探偵事務所を開いている。

 コナンはどうか。

 推理小説家の父、女優の母を持つ高校生探偵・工藤新一は、平成のホームズとまで呼ばれマスコミの寵児だったが、謎の組織の追跡に失敗、一命は取り留めたものの飲まされた毒薬の作用で体が縮み、小学一年生の姿になってしまった。黒い組織の秘密を暴き、体をもとに戻す薬を手に入れるために、父親が探偵事務所を開いているガールフレンド蘭の家に居候し、正体を隠すため仮の名「江戸川コナン」を名乗っている。

 たしかに設定が似ている部分もある。

 けれど、例えば外見のいでたち、眼鏡、ネクタイ、スーツ姿一つをとっても、それが表現するニュアンスは異なっている。

 ピカソ君の眼鏡は、何かアイディアがあったときピカリと光る優れた頭脳を象徴すると同時に、外交官を父に持つ気弱な秀才少年の表情を与える。コナンの眼鏡は、幼なじみの蘭の目から自分の素顔を隠すための変装であり、また犯人追跡機能を備えたミニレーダーでもある。

 ピカソ君のスーツ姿は大人でありながら小学生、しかも事故の後遺症で寒さに弱い虚弱な身という哀愁を漂わせると同時に、お洒落で礼儀正しい探偵ピカソ君の茶目っ気も演出する。

 それに対してコナンの蝶ネクタイと背広姿は、友人阿笠博士の考案する探偵七つ道具を誰にも知られることなく隠し持つことができる巧妙なファッションである。(蝶ネクタイ型変声機、時計型麻酔銃、キック力増強シューズ、犯人追跡メガネ、トランシーバー付き少年探偵団バッジ等)

 ここに挙げたのはほんの少しの比較例でしかないが、ピカソ君がユーモア感覚を備えたナイーブな主人公であるのに対して、コナンは名探偵への強烈な憧れを体現した小さなヒーローであることが浮かびあがってこないだろうか。両者の性格の違いは、そのまま作品世界の違いでもある。

 先に、二つの作品世界はかなり感触の違う内容であることから、コナンを夢中で読む子がピカソ君をも好きになるという、そんな単純なものではないかもしれないと述べた理由はここにある。

(私が言いたいのは、どちらのアイディアが先行したとか、どちらの作品の方が優れているとか、そんなことではない。)

 コナンのヒットが本格的な推理小説をモデルにした作品世界に由来し、金田一少年のヒットも同様の理由であるならば、ユーモア探偵小説ピカソ君の場合は、それに当てはまらない、本格推理物語というよりはナンセンス物語なのだから、ということである。

(もちろん、より多くの子どもの娯楽的な趣向とは異なっても独自の魅力で幾らか少数ではあっても読者を獲得する作品だってある。青山剛昌にしてもコナンに至るまでに書いた作品群は、派手なヒット・メーカーのものというよりも、「えくすかりばぁ」「マジック快斗」など独自の感性を表現したユーモラスな少年向けの短編、連作短編が多いことを忘れてはならない。)

 ピカソ君は、よりナイーブな洗練された世界を求める、独自の感性を持つ子どもを喜ばせる作品かもしれないのであり、単純に読者数を問題にするのは滑稽である。

 しかしその上でなお、多くの子ども達は、娯楽的な本格推理読み物が好きである。(青山剛昌はそうした子どもの一人だった。)

 また、多くの読者は自分自身を投影して応援できるようなヒーローを作品に求めている。(コナンは、青山の少年時代の夢を投影した「小さな名探偵」=ヒーローである。)

 だから、そうした世界を描ききった作品が多くの子どもたちに支持され読まれる(例えば累計三千万部の単行本を売る)のも、ごく自然な成行きなのかもしれず、最近では、マンガ界から「金田一 一」「江戸川コナン」というヒーロー的な少年を配した大ヒット作品「金田一少年の事件簿」「名探偵コナン」が登場してきた。

 九十年代の混迷した世相とも、これらの少年探偵物語のヒットはどこかでつながっているのかもしれない。

 

 「ピカソ君の探偵ノート」から目を転じて、活字の世界で現在子どもが手に取ることが出来る少年探偵物語、推理小説の作品にはどんなものがあるだろうか。

 「子ども文化と教育のひずみ」(現代ひずみ叢書8、高文堂出版社)の中で、根本正義はこう指摘している。

 

「九〇年代の今、大人の文学の世界では、時代小説・歴史小説ブームといっていい。なぜ九〇年代を生きる児童・生徒のための時代小説や推理小説が皆無なのであろうか。あるのは江戸川乱歩の『怪人二十面相』や『少年探偵団』等の戦前の作品であり、『青銅の魔神』等の昭和二十年代から三十年代にかけて、雑誌『少年』や『少年クラブ』等に発表された作品である。推理小説は同時代性をもっている。その意味で、平成時代を生きる児童・生徒のための推理小説があってもいいはずである。」

 

 活字離れの子ども達の、読書への糸口のひとつとしてマンガを見直すことで、子ども達に支持される「平成という同時代を伴走する名探偵=少年ヒーロー」の姿が浮かび上がってきた。現状ではマンガ作品が先行しているが、児童文学作品からも、やがてはこうしたヒーローが生まれてくるのかもしれない。

 根本正義の指摘にあるように、「平成時代を生きる児童・生徒のための推理小説」の誕生を待望したい。

 

 

 

 

青山剛昌「名探偵コナン」論

活字離れの子ども達の、読書への糸口のひとつとして、マンガを見直す

 

(1997/6 初稿)

(2015/6/14 加筆)

 

  

©Tomoe Nakamura 1997

 

 

 

 

<追記>本稿は、同人誌「結晶作用No.4」のため準備したものの、力不足で発行することが出来なかった試論です。現在2015年、これを書いた1997年当時とは比較にならぬほど「名探偵コナン」は、押しも押されぬ大ヒット作へと成長しました。(現在は、作者の青山剛昌さんが病気療養のため、雑誌連載を休載中です。御快復を心よりお祈り申し上げます)

また、平成の児童文学事情を刷新する出来事として、冒険ファンタジー&学園ミステリーの主人公「ハリー・ポッター」=イギリス生まれの魔法使いである少年ヒーローが登場し、世界中の子ども達の熱い支持を得ました。日本でもその影響は大きく、ファンタジーやミステリーのライトノベルが数多く出版されるようになりました。(2015/6/14)

 

 

 

 

→ 「名探偵コナン」論 ページトップへ
→ まんが雑記 (1) に戻る
→ 次へ

 

 

  御高覧ありがとうございます。