小 説                  雪 の か け ら は 空 の 手 紙

 
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− 雪のかけらは空の手紙 −

 

 

 

 ユウがその女の子と初めて会ったのは、秋の遊園地。高校二年生の時。

 ユウが学校に行かず、家にも帰らず、デタラメな電車に乗った日のことだった。

 

 

 

(1)アリス

 

 

 その朝は、いつもどおりの朝だった。

 満員電車も、駅前通り一面を閉ざしている灰色のシャッターも、歩道橋に響く足音も。

 けれど。

 コツン。コツン。校則どおりの無難な黒い革靴と三つ折りの白ソックスを見つめながら一段、また一段、歩道橋を登るごとにユウの足どりは重くなり、橋の半ばまでのろのろ歩いた後、とうとう一歩も先へ進めなくなった。

 立ち止まったユウの脇を、急ぎ足のサラリーマンやOLが迷惑顔で次から次へとすり抜けて行き、押しやられるようにサビた手すりから歩道橋の下をのぞいたユウは、思わず息を呑んで額を押さえた。

 街の大動脈、八車線の国道。アスファルトいっぱいに流れるメタルの河。走り過ぎる車の群れの中へ、ユウはそのまま吸い込まれそうになった。

 昨夜、苦手な物理の試験勉強を遅くまでしていたせいで、ユウの頭はグラグラした。車 道の両脇に林立するオフィスビルが、朝日をガラス窓からいっせいに反射して、白金に輝くはるかな壁のように、ユウの通学路を見おろしていた。

 歩道橋の向こう岸では、鏡面張りの円柱がヒョロヒョロの街路樹を銀色のカーブに映して、キラキラ光るだまし絵みたいにユウの行く手を飾っていた。

 いつもどおり。

 光化学スモッグ情報の電光表示も、巨大なデジタル時計の点滅も。

 何一つ変わらない。

 もし、ユウが今、突然この世から消えてしまっても、車の河は流れ、電車は満員、輝くビルの足元を人々は列をなして歩くだろう。

 それは、ちょうど猫のアリスがいなくても、校庭では何の変わりもなく銀杏が葉を落としているようなものだ。

(アリスの馬鹿。猫のくせに、身がかわせなかったの?)

 ユウは肩を落としてうなだれた。

 アリスは、身軽な猫ではなかった。以前、車にはね飛ばされて左の後足をひきずるようになっていた。そうして今度は、自動ロックで両脇から閉まる鉄の門に背中を圧しつぶされたのだった。アリスは、ひどく運の悪い猫だった。

(せめて校門を人の手で閉めていれば……)

 校門は鉄だから、スイッチに命令された通り動いて役目を果たした。

 校門は、痛みを感じない。

 スイッチを入れた用務員さんも、現場から離れていたから悲劇を見なかった。

 血を流したアリスを見つめていたのは、ユウひとりきりだった。

 定時かっきりの死。

(私が、あの時、あんな場所でアリスと遊んだりしなければ)

 ユウは、校門をくぐりたくない。

 銀杏の木の下に、昨日作ったばかりの野良猫の墓があるのも、見たくない。

 出来るなら、日毎夜毎あんな門に閉ざされる学校などでない所に埋めてやりたかったけれど、この辺りで土のある場所といったら、ユウには校庭しか思い浮かばなかった。

 黄金色に染まった銀杏の葉が降りしきって、アリスの墓を包んでくれたことだけが、わずかにユウをなぐさめていた。

 

 歩道橋のてっぺんで立ちほうけ、真下の車道を見つめる。

 三つ編みの髪。足もとに置いた黒い革製のカバン。手すりにほほを乗せ、片手で宙に落書きをして、片手はぼんやり垂れたまま。

 そんなユウの背中に、いぶかし気な視線をチラッチラッと投げながら、たくさんの大人達が黙々と通り過ぎていった。

 ある朝には酔っぱらいがバカヤローとわめき、別の朝には街宣カーが走り抜け、ときには古びたショールにくるまったおばあさんがうずくまっている。

 そんな街の、そんな雑踏を見おろす歩道橋の上に、今朝は行く先を忘れた青い天使がたたずんでいたとしても、不思議はない。

 ブルー・エンジェル。

 他校の生徒がそう呼ぶ、深い青のセーラー服は、軽やかなイメージと裏腹に、厳しい校則と生活指導とを誇るユウの高校のシンボルだった。

「もしもし、あなた気分でも悪いの。

 学校は? もう始まってるんでしょ」

 振り返ると、いかにも親切そうなうるさ型らしい婦人が、眼鏡ごしにユウの頭のてっぺんからつま先までをじろじろ見ていた。

「え。ええっと」

 ユウの透明バリアは、強力な視線を前に、シャボン玉のようにこわれた。

「平気です。あっ、私、急ぐんです」

 どこかタイミングのずれた応答に、太った婦人は眉を寄せ、何か口を開きかけた。

 ユウはくるっと身をひるがえした。

 さっき歩いて来た方へと足を向け、駅から続く人の流れに逆らいながらトントントン、と歩道橋の階段を小走りで降りた。

「ちょっと、あなた。お待ちなさい」

 ユウの胸の上で風が巻き起こり、セーラー服のリボンが青い蝶になってパタパタパタ、と舞いくるった。

 

 彼方へ、誰にも見とがめられないような、遠くへ。

 始業時刻は、とっくに過ぎていた。

 ユウが乗ったのは、学校にも家にも着かない電車。シートはどれも妙にがらんと空き、人気の無い映画館のようだった。

 車窓から押し流されていく街の景色は、単調な無声映画さながら、ユウが疲れて目を閉じても切れ目なく続き、青いビロードにポツンと座ったユウを取り残したまま、幾つもの駅が現れては消えていった。

 知らない駅名から、知らない駅名へ。

 今、レールの上には時間割も黒板もなく、携帯電話の電源を切ったユウがどこにいるのかを、誰も知らない。

 ユウでさえ、知らない。

(私、いったいどこへ行くの?まるで幽霊にでもなったみたい)

 身体中から力が抜け落ちて、ユウは、自分の手足を糸の切れた操り人形のように感じた。

(アリスは、本当にもういないのかしら。

 幽霊になって、どこかさまよっているかもしれない……丁度、今の私みたいに)

 

 あの時。

 白と銀とのフワフワの毛並みが、一瞬にして血にひたり、汚れた冷たいむくろに段々変わっていった時。

 ユウの体は冷たくしびれ、カタカタと金属のコマのように震え続けた。のどの奥が苦しくなったけれど、体も心も頭の中も氷山みたいに真っ白で、一滴の涙すら凍てついて出なかった。

 ユウはふるえながら、黙ってアリスのために墓を掘った。

 校門は、重厚な唐草模様にふち取られたいつもどおりのたたずまいで、ただ、獲物を喰らったひそかなしるしに、したたる夕陽にその足元を染めていた。

 帰宅後、ユウは夕食もとらずに二階の個室にこもった。

 大学病院で医者をしている父。最近コンピュータ・ソフトの企業に再就職した母。兄はT大四年、姉はO大二年。

 それぞれに自分の生活を家の外に持っていて、家族一緒の夕食などは珍しくなっていた。

 電子レンジの中のディナー皿には手をつけず、

「試験が近いから、勉強するね」

 その一言で、ユウは、あっさり自分の部屋へひきこもった。

 実際、試験が近づいていた。

 ユウの高校では、二年生の秋からすでに、志望大学をどこにするのかという面接が始められる。ゆううつな事に、父兄同席の三者面談がもうすぐだった。

 ふと、電車内の壁を飾るポスターの一枚が、ユウの目を引いた。どこかの商社の人材募集広告で、大きなゴシック体の文字がうたっていた。

『スーパーマンよりも

 ヒューマンが

 あったかい』

 ユウは、その文句を考えたコピーライターに大きな花束を贈りたくなった。

 父母の発想とは、見事に正反対だった。

「あんな高校で、こんな順位の成績しか取れないのか。これではお前、大学入試が思いやられるぞ」

「今のうちからしっかり勉強するしかないわ。お兄ちゃんお姉ちゃんを見習いなさい」

(お兄ちゃんお姉ちゃんと言ったって……)

 電車の壁に幾枚か並んでいる予備校のポスターを見上げて、ユウは溜め息をついた。

(誰でも簡単にT大やO大に行けたら、日本の受験戦争はとっくに解決してるでしょ)

 前々回から重なる物理の赤点も、数学の赤点もみな、面接で洗いざらい家族にバレる。

 頭の痛いことに、今回の試験で赤点は、もう一つ二つ増える可能性さえあった。物理の教科書はあいかわらず解読不能な古代文字のままだ……昨夜も、校門のショックで、シャープペンシルをカチカチ鳴らす時間ばかりが過ぎていった。

 父の決まり文句が耳の奥で響き、胃が痛くなってきた。

「お前にはプライドのかけらもないのか」

(スーパーマンばっかりじゃないわ。そんなこともわかってくれないのかしら)

 どうしてかユウの家族は、とびきりの学歴を誇りにする人間ばかり集まってしまって、ユウにとっては生まれながらの不運な環境というほかなかった。

(どうせ落ちこぼれ、水野家前代未聞の)

 ユウは、いっそう深く溜め息をついた。

 アリスが死んだ。

 街も学校も家も、痛みなど感じない。

 一つの痛みがあったことを、校門のすき間で悲鳴があがったことを、誰も知らない。

(ダレモ・ダァレモ・シ・ラ・ナ・イ……)

 

 いつしか電車は街並みを抜け、河べりを走っていた。

 すすきの穂が淡い銀の波を立て、乾いた明るい日差しが、そのふっさりと柔らかな一面の穂波の中、あちこちからウィンクを交わし合っていた。白銀のすすきの穂は、アリスのしっぽに似ていた。

(アリスの背中は、いつも日なたの匂いがした。くるんとしっぽを丸めて、パタッと横にふる時は、私へのちょっとしたあいさつ。

 アリスの目は、楽しい内緒話をいっぱい浮かべて、くるくる笑いながら透き通ってた)

 河が気まぐれに日光を反射し、チラチラ銀色に揺れていた。

 アリスは、野良猫だった。

 野良猫などいるはずのない、いるべきでない校庭を寝ぐらにし、生きていた。

 ユウはそんなアリスが好きで、放課になるとミルクやパンを運び、クローバーの茂みの上で一緒に遊んだ。

 誰にも許されず、誰にも期待されず、たった一匹で、しなやかにテニスボールと遊びたわむれ、気が向くとポプラの根元で昼寝をしていたアリス。

 ユウも、アリスのようになりたかったのかもしれない。

 家族の期待に応えられず、はいるはずのない、はいるべきでないレベル――兄や姉に遠く及ばないレベル、おまけに古くさい校則でがんじがらめ――の高校にしか、合格しなかったユウだったけれど。

 テニスボールを追いかけたり、ポプラの根元で絵を描いたり、のんきに好きな歌を歌っていたかったのかもしれない。

 それでいい、と心のどこかでささやく声がいつもあったのに。

 ユウは、電車広告のコピーをにらんだ。

『スーパーマンよりも

 ヒューマンが

 あったかい』

(嘘つき)

 スーパーマンはスクリーンの中、愛する女性のために一度人間(ヒューマン)になったけれど、悪者と戦ってもヒューマンでは歯が立たないことがわかると、あわててスーパーマンに戻ってしまった。

 そうでなければあっけなく殺されて、クラーク・ケントは地球を救うことは出来なかったろう。

(あったかくなくても、世の中はまわっていく。花束なんて、あげない)

 結局、アリスは死んだ。

 機械仕掛けの校門にしめ出されて、かえりみられないまま。

 にらみつけた壁広告の文字が、ユウのまぶたの中でふっと大きくなり、二重に分かれた。透明なレンズがぶれるように、視界が曇ってきた。

(神様。あなたがたわむれにアリスの命の糸を切った時、私を操る糸にまでハサミが触れました。痛いです)

 ポタン。

 ブルー・エンジェルの胸リボンに、青いしみがこぼれ、みるみる広がった。

 ポタン……

 

 

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(2)律子

 

 

 河には、橋がかかっていた。

 橋の向こうに、輪切りのレモンの巨大なオブジェが置いてあった。

 陽光を受けて金色にきらめく観覧車だ。

 波打つオーロラの形。

 ジェットコースターのレールも見えた。

(アリスがいなくなっても、アリスが血を流しても、泣いているのは、私だけ)

 ユウは、指でゴシゴシと涙を押さえた。

 ユウは、十六歳。成績は兄・姉のようにさえていないし、性格は目立たずおとなしく、容姿だっていたって地味なほうだと鏡を見るたび思い知っていた。

 指折りの進学校に進んだ兄・姉よりもランクの低いとされる今の高校に入ってからとい うもの、家の中ではなんだか肩身が狭く、学校ではろくに友達も作れずにいた。

(もしも、私がいなくなっても?)

 ユウのほほに、はっかのように涼しい秋風が当たった。半開きの電車の窓から、かすかに銀色のしずくに似た音色が流れ込んできた。

 リリ・コロン・リリ・コロン。

 遊園地から漂ってくる音楽だった。

 ユウは、なぜだか間抜けなパイプオルガン調の音色に合わせてピョコン、ピョコンと木馬のはねるメリーゴーランドを、見たくなった。

 幼い頃、遊園地に連れられて行くと、ユウは必ずメリーゴーランドに乗った。小さなユ ウは、金色のたてがみ、水色の瞳の白い木馬が大好きで、父母に手をひかれてはしゃいでいた。

(ここで私、いなくなってしまおう、かな)

 ユウはプラットホームに立ち、シンセサイザーの音をきらきら辺りに散らして空に浮かんでいる観覧車を見上げた。

 観覧車は、時計と反対方向にゆっくりめぐりながら、ユウを招いていた。

 

 水曜日の午前早く。

 遊園地は、訪れる人もまばらだった。

 ユウは、切符売り場のおじさんにセーラー服をじろりと見られて、きまり悪い思いでゲートをくぐった。

(門って、きらい。制服も。

 もし私が本当に幽霊だったら、アリスと一緒に駆けて行く。

 門も壁もセーラー服も、扉という扉をすり抜けて風みたいに、影みたいに)

 ユウは、ミルク色に光る雲の中を駆け抜け、軽やかに空を飛びはねながら昇っていく野良猫の姿を思い描いた。

 不思議なことに、空の上ではアリスは車にひかれた左足をひきずってはいなかった。

 まばらな木立の間の小石道を歩いていくと、頭上の空が少しだけ広がった。

 ユウは、深く息をついた。

 

 (あっ、いい風)

 やさしい感触が肌をかすめた。

 小道をおれた芝生の広場で、ユウは、前をゆっくりよぎる車椅子に立ち止まった。

 車椅子には、ユウと同じ年頃の可愛い女の子が乗っていた。

 やせた白いほほ、切りそろえた前髪の下で、瞳がぱっちり前を見つめている。

 トクン、とユウの胸が鼓動を刻んだ。

 両方の車輪が糸車が回るように両手の下から押し出されて、女の子は車椅子を前へ前へと進めていく。

(きれいな子……)

 ユウは立ち止まったまま、女の子の細い横顔とさらさらの髪を見つめた。

 その髪が風に揺れるたび、車輪が回り、ミルク色の雲の方角へと女の子の小さな背中が溶け込んでいく。

 向こうの芝生のベンチに、女の子の母親らしい人が座って、微笑みながらこっちを見ていた。

 不意に、ユウの唇から言葉がこぼれた。

「あのう、メリーゴーランドはどこにあるんでしょう?」

 そよ風が休むように車椅子が停まって、女の子が振り向いた。

 女の子は困った顔で首をかしげ、にっこり笑ってユウを見た。

「ごめんなさい。

 私、いつも同じ道しか使わないから。

 遊び場のことは、よく知らないの」

 愛らしい外見よりずっと落ちついた大人っぽい声に、ユウは少し驚いた。

「いいえ、ありがとう。

 自分で探すからいいんです」

 やがて、この園内をぶらぶら歩いて行けば、ユウは白い木馬に会うことが出来るだろう。

(どうして私、わざわざ道を……いつも人見知りしてしまうのに。

 そういえば、クラスメートに自分から声をかけるなんて、ほとんどなかった。

 家族とだって、この頃はあたりさわりのない会話がやっと)

 女の子は、ユウの制服姿を眺めて丸い瞳に好奇心を浮かびあがらせ、おかしそうに笑く ぼを見せた。

「あー悪い子なんだ。

 エスケープしてるぅ」

 歌うような自然な調子。

 小さな子のいたずらを見つけでもしたような。

 白いほほに笑くぼを浮かべた女の子をかすかな秋風が包み、栗色に日に透けている髪を 揺らして吹き過ぎた。女の子はユウに興味を持ったのか、続けて話しかけてきた。

「あなた、独りぼっちで遊びに来たの?」

 ユウは、うなずいた。

(そう、学校、きらいだから)

 遊園地、車椅子で散歩する少女、メリーゴーランドの白い木馬……みなユウの属してい た世界とは切り離された存在、まるでユウにとっては……絵の中のような。

 けれど、女の子は、ユウのかすかな期待を裏切ってひどく冷静な声でつぶやいた。

「ふうん、そうなの。もったいないな」

 さらさらの髪を白い指に巻きつけながら、女の子はついと前を向いた。

「もったいないって?」

 女の子は再び車輪を回し始めた。

「私、一週間前からこうやって車椅子の練習してるの。

 その前はね、病院のベッドにいたの」

 女の子が通るとき、風景が一瞬息をひそめた。木や小石や空気が静まって、その後ろ姿を見送っているような緊張感が漂った。

「もう二年になるかな、ずうっと学校に行っていない」

(病院のベッド? もう二年?)

 ユウは、女の子を追いかけて歩いた。

 二人が並んだとき、女の子がユウを見てニコッとした。

「ごめんね。知らない人なのに、急に変なこと言っちゃって」

 ユウは、首を横に振った。

 病気なのに、車椅子に乗っているのに、りんと背すじが伸びていて、女の子はなんだか ユウよりずっと大人っぽかった。

 ユウは、さっき流した涙の跡を女の子に見つめられているようで、きまり悪かった。

「ううん、私こそ練習の邪魔してごめんね……それじゃ」

「あっ、待って」

 女の子が少しあわてた声で、ユウを引き留めた。女の子の黒い瞳が鏡のように、ユウの 姿を追いかけてくる。

「なに?」

「あのね、私、あなたの制服を見てすぐにどこの高校かわかったの。

 だって、病気になる前、私、そこを目指して勉強していたんだもの」

「え。そ、そうなの……」

 ブルー・エンジェルの制服。

 ユウは、胸のリボンに目を落とした。

 ユウにとっては、精一杯勉強して入った学校。けれど兄や姉に比べたら、レベルが低い と両親は思っている学校。ユウは、アリスを殺してしまった校門の威厳に満ちた姿を思い浮かべ、声を落としてつぶやいた。

(知らないの。きびしい校則の、受験校)

「そんなに楽しい所でもないのに」

 すると女の子は、おかっぱ髪を風に揺らして笑った。くつくつと楽しそうに、風にくす ぐられる白いユキヤナギの花のように。

「知ってるわ、それでもよかったの。

 だって。だってね。馬鹿みたいかもしれないけど、私、片想いしてた人と同じ高校に行 きたい一心で、勉強していたの」

「片想い?」

 ユウは、オウム返しに聞き返した。

「そうよ。まるっきり、完璧な」

 ああ、なんだかとても。

 この人は、大人なんだ……

 ユウには、いまだそういう気持ちを寄せる男の子がいなかった。

 誰かを好きになるってことを、すでに知っている人……

 ユウは、楽しそうに笑っている女の子を、自分とは違う世界の住人、例えば妖精とか何 か、透明な羽根をかくし持つ生き物のように感じた。

 とまどいながら、ユウは女の子を見つめた。

「そう……片想いでも、目標に出来る人がいるって、いいな」

 少し考えて、ユウは首をかしげた。

「その人は、今、私と同じ高校に?」

 女の子は、心持ちほほを染めて一瞬、真面目な顔になり、すぐにいたずらっぽい笑くぼ で上手にそれを隠した。

「いるはずだけど。

 ……でも、彼がどんな高校生活を送っているのかなんて、今の私には知ることも出来な いし」

 人指し指と親指とで自分の前髪をつんつん引っ張り、くるっと上目使いにそれを見つめ ながら、女の子は溜め息をついた。

「あの人は……私がこうして車椅子の練習を一人でしているなんて、全然知らないし。

 知ったとしても別に関係ないと思うだけだわ、きっと」

 女の子のついた溜め息は、とても小さかった。

「そんなこと……」

 ないわよ、とユウに言い切れるわけがなかった。言葉もなく、ユウは立ちつくした。

 そよ風が休むことなく女の子の髪をさらさら揺らし、その同じ風がユウのブルー・エン ジェルの胸リボンを静かにふるわせた。

 ふと思いついてユウは、セーラー服の胸ポケットの校章をはずした。

「あのう、これを」

 女の子は、掌のくぼみに小さな校章を乗せてじっと見つめた。

(おせっかい……だった?)

 ユウが不安になりかけたとき、女の子はうたうように言った。

「いいの?

 私、ずうっとあこがれていたんだぁ」

 校章は、女の子の手の中で日光を反射して、銀色のマークをきらめかせた。

 女の子の声が、吹いている風のように涼しく響いた。

「ありがとう。これ、お守りにするわ。

 早く普通の学校生活に戻れますように。

 普通のセーラー服が着られますように。

 毎朝カバンを持って登校して、皆とおしゃべりが出来ますようにって、お祈りする」

 女の子は、ブラウスの白いえりにブローチでも留めるように、校章をつけた。

 キラリ。

 ありきたりな校章は、魔法にかかったように女の子の白いえり元で、美しく意味深い銀 色のアクセサリーに変わってしまった。

「あのう、あのね」

(そんなに、普通の学校生活って、素敵なものだった?)

 ユウは、まだ話しかけたいことがあった。

 死んでしまったアリスのこと。

 女の子の笑顔がユウには白いユキヤナギみたいに見えたこと。

 それから。

 それから……

「なあに」

 女の子が、車椅子からユウを見上げた。

「もし、あなたさえ良ければ、手紙を書きたいの。私の高校のことをあれこれ……出来れば、あなたの想っている人の様子も」

 言ってしまってからユウは、ためらいがちに女の子を見た。ぱっと日が射したように、 女の子の表情が明るくなった。

「それって、お友達になってくれるってこと?」

 女の子の瞳に明るく射した日の光が、ユウの胸にも温かなさざ波が寄せるように広がっ た。女の子は、ユウの手帳に名前と生年月日とアドレスを記しながら言った。

「忘れないで、手紙、書いてね。

 絶対に返事を出すわ」

 そうして、その下に一人の男の子の名前を書き添えて、女の子は照れ笑いした。

 大人っぽさは影をひそめた、あどけない笑顔だった。

 

 律子。律子さん。

 ユウは、見つけたばかりの友人の名を、何度も心に書き記した。

 木立の向こう、芝生のベンチから律子のお母さんがユウににっこりと頭をさげ、その傍 らの車椅子から律子が手を振っていた。

 ユウも、バイバイ、と手を振り返した。

 バイバイ。またね。

 きっと、手紙、書くから。

 ユウは、後ろ手を組んでぶらぶらと、一人で木立の間の小石道を歩き始めた。

 学生カバンの中で、アドレス帳がコトコト鳴っていた。

 柔らかな風が、セーラー服のひだスカートをくぐって素足に触れ、吹き過ぎていった。

(毎朝カバンを持って登校して、皆とおしゃべりが出来ますように……か。

 毎日そうしていても、楽しいと思ったことなんてない。

 何か、どこか……私、違っている?

 あの、透明な羽根を持てずにいるのは)

 空は、冷たく澄んで青かった。

 雲が少しずつ形を変えながら、ハチミツ色の光のふち取りを浮かべて流れていた。

 気がつくと、校門も、雑踏も、テストの成績も、重圧感を弱めてユウの背後から遠ざかっていた。

 ユウは、アリスのように思いきり伸びをした。そのはずみに少しだけ涙があふれた。

 アリスの背中、日溜まりのような涙。

(歩くだけで、こんなに自由で気持ち良くなれるなんてね)

 あー、悪い子なんだ。

 エスケープしてるぅ。

(そうよ、私は悪い子。

 エスケープしちゃった)

 家も学校も街も、ユウをつかまえられない。

 振り向けば、そこには取りつくしまのない冷やかな他人の群れではなく、鬼ごっこの鬼 が途方に暮れて立っているかもしれない。

 どうしてみんな一緒のゲームから逃げ出しちゃったの? と、つぶやきながら鬼はユウ を見つめている。

(寂しかったから)

(寂しいばかりの毎日から、エスケープ)

 きまりきった道をたどって歩き続けることに疲れてしまっても、それでもユウにはまだ 足があるし、足は歩くことを知っている。

 足の向くまま歩いてみるのは、気持ち良かった。自分の足で歩く、ということ。

 アリスは、きっとこのことを知っていたのだ。野良猫である自分を、心底気に入ってい たようだったから。

(なぜ私、律子さんの前で立ち止まったの)

 ユウを押し流すように歩道橋にあふれていた人・人・人はみな、自分の足元も見ず乱暴 な足どりで急いでいた。

 けれど、律子のまわりにはそんな荒々しい流れとはどこか違う、柔らかな空気がそよい でいた。

(律子さんは車椅子に乗っていたけれど、でも、風と一緒にゆっくり、ゆっくり歩いてい た。ほんとに自然に、体全部を使って前に進んで行く事を知っている人)

 ユウは、いつのまにか、今さよならしたばかりのペンフレンドに向かって、第一通目の 手紙を心の中で綴り始めた。

(Dear.律子さん)

 呼びかけたい想いだけは、くっきりと浮き上がってくるのに、それに続く言葉は雨垂れが輪を次々に描くようにユウの中でポタン、ポタンとざわめいて、なかなかまとまりそうになかった。

 アリスのこと、進路のこと、家族のこと。

 今まで考えているようで考えていなかったのかもしれないし、それとも誰にも心を開い て打ち明けられず一人で悩んでいたのかもしれない。

 ブルー・エンジェルの高校生活。

(律子さん。

 私ね、昨日友達をなくしたばかり……アリスという名の猫です……で、学校も何もかも 大嫌いになって逃げ出して来たところだったの。

 でも、律子さんを見ていたら、「大嫌い」でいっぱいの自分が、つまらなくなった。だって、律子さんの心の中には、「大好きな人」が居て、その人が私にもあかりみたいに透けて見えたの。

 たとえ会えなくても、そんな風に心の中に誰かがいるって、すごいと思いました。

 すごく、素敵)

 明日。

 学校に行ったら、アドレス帳の男の子をさがしてみよう、とユウは思った。

 とりあえず、そこから始めてみよう。

 First・Letter.

(律子さん。

 律子さんの好きな人って、一体どんな男の子?)

 ユウは、なんとなくニッコリした。

 律子への〃?〃が、ユウ自身にもユキヤナギの花みたいに笑う方法を、教えてくれるか もしれない。

 そんな予感がした。

 

 

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(3)美術室にて

 

 窓から見えるポプラ並木は、すっかり葉を落として、まるで寒空に突き立つ竹ボウキの行列だ。トキトキ尖った枝のすきまから、夕陽がオレンジ色に射し込んで来た。

(暮れるのが、早くなったな)

 窓際の流し台に立ち、すっかり濁ってしまった筆洗液を捨て、新しい透明な液で容器を満たしながらユウは、ふっと肩の力を抜いた。

 さっきから、キャンバスの上でビリジアンの絵の具と紫の絵の具とが妙な色合いに混じり合ってしまって、モデルの「つぼ」とは似ても似つかぬ鈍重な物体が描き出されつつあった。これというのも、古屋先輩のせいだ。

「うーん。今イチ、立体感が出てないね。

 油絵の具は重ね塗り出来るんだから、もっと大胆に色を使っても大丈夫なんだ。

 ホラ、こうしてね、ちょっと紫なんかで影をつけて……」

 ユウが目を丸くしているうちに、ユウのパレットから紫を筆先でかすめ、古屋先輩はちょんちょんとユウの絵に修正を加えた。

「チャーリー、ダメじゃなーい、自由に描かせてあげなさーい」

 美術室中いっせいにクスクス笑いが起こり、可南子先輩がソプラノの声でたしなめた。

 チャーリーと呼ばれた古屋先輩は(なぜチャーリーなのかはわからない)、あっけらかんと

「かわいい新入部員に教育的指導をしてあげてるのさぁ。ねえ水野さん」

 さらにあっけらかんと

「ジロー君ほどグチャグチャベタベタ塗りたくっても、なんとか絵になるぐらいなんだからね。安心して、思う存分、絵の具に慣れることだよ」

 涼しい顔でそう言って、古屋先輩は作業用に置かれた長テーブルに座を占め、受験参考書を開いた。古屋先輩や可南子先輩のような三年生部員は、この時期もう絵は描かない。

 もっぱら後輩をひやかしに美術室に来ては、ついでに紅茶を飲み、勉強などしていくのが常だった。ユウのような、二年生の秋に入部届を出しに来た季節はずれの新人は、現役を半ばしりぞいた三年生の、丁度良いおもちゃにされてしまっているフシもあった。

 古屋先輩の教育的指導に、さらにユウが無器用に手を加えた結果、ユウの「つぼ」は小さな子の落書きかピカソの失敗作みたいになった。

(ああ、もう手がつけられない)

 確かに、おそるおそる色を置いているという感じが消えて、画面に厚みと陽気なエネルギーが宿ったけれど。

 ユウは、クスッと笑った。

(これが、私の描いた絵だなんてね)

 顧問の美術教師、春野先生は

「せっかく入部するんだから、油彩をやってごらん。道具は美術室にあるものを使ってもいいし、買ってもいい。まず一枚、描いてみることだ。習うより慣れろ、そのうち自分の描き方がわかってくるからね」

 そう言ったきり、あとのコメントは一切なし。自分のキャンバスの食卓ほどもある大きな画面いっぱいに、一面の空、ラジオ体操をする人々の姿をおどらせていた。

 筆を運びながら春野先生はいつも、デッサンの木炭消しに使うフランスパンを半分に割ってむしゃむしゃ食べ、BGMにビートルズやバッハやサザンのテープを流していた。

 この学校の校風に似合わぬ顧問のキャラクターによるのか、放課後の美術室は、意外にも気楽なサロンと化していた。

(そのうち自分の描き方がわかってくる)

 春野先生の言葉を、ユウはしおりのように自分の心のページにはさんで、何度も何度もそのページを開いてはのぞき込んだ。

 まだ真新しくて真っ白なページを、しおりは指し示している。心のページが開かれるわずかな気配にも、そのしおりはふんわりとそよいだ。金色のふち取りを持つ透明な羽根のように。

(私の、描き方)

 真っ白なページを自分の中に見つける。

(これから、どんな色にでも、自由に塗っていける……)

「エイッ。」

「あーっ。ひどい、絵の具エプロンに付いちゃった!」

「あはは、いいじゃん。どうせ汚れたエプロンだもん」

「怒った。もう、コノ。エイッ」

「キャー、駄目、私のエプロンおろしたてだってのに」

 いつもの一年生コンビがじゃれ合い始めた。

 彼女達は、ユウよりも美術部になじんでいてくったくがなく、ちょっとした事で笑い転げてばかりいた。ユウは、まだ新人。なんとなく異邦人のお客様。やがては一緒に笑いたわむれる日もあるのだろうか。

「ちょっとぉ、うるさくて勉強できないわよぉ。ねえ、絵描かないで遊んでるんでしょ、お茶にしましょ」

 可南子先輩がポニーテールを揺らして立ち上がった。とても旧式な電気ポットが、まもなくコポコポ鳴り始め、白い湯気を吹き上げた。

 可南子先輩が画材用キャビネットを開けると、筆洗液や折りたたみ式イーゼル、汚れたパレットに混じってコーヒーカップやティーバッグ、角砂糖のつぼやクリープのビンが所狭しと並んでいた。

「あっ先輩、あたし達やります」

「春野先生、コーヒーと紅茶、どっちですかぁ」

 一年生コンビがパタパタと動きまわり、カップにスプーンのぶつかる銀の音が美術室に響いた。

「水野さんは、何を飲む?」

 肩越しに可南子先輩がユウのキャンバスをのぞき込み、にっこりしてやさしい声をかけてくれた。

「えっと。コーヒーお願いします」

「おーい、今日はジロー君の差し入れのお菓子があるぞー」

「わーい、ムーンライトクッキーとアルファベットチョコだぁ。あたし大好き」

「ジロー先パァイ、いつもありがとうございまぁす」

 テーブルの周囲で、古屋先輩と一年生がはしゃいでいる。

「水野さんもこっちへおいで。一緒に食べようよ」

「はぁい」

 ユウが席を立った時、突然ブツッと放送のはいる音がした。

『ただいま五時三十分。下校時間です。

 生徒の皆さんは速やかに下校して下さい。

 繰り返します。

 ただいま五時三十分……』

 いつもながらユウの体は、わずかに硬直した。

(校門が、自動ロックされる時間)

 血に汚れ冷たくなったアリスの感触を指先から払い落とし、ユウはテーブルについた。

「小坂先生ったら、いきなり四角い声を出すんだもの。毎日毎日、笑っちゃうわよね」

「ただいまマイクのテスト中、あー本日はぁ」

 あいかわらず何でもおかしい一年生達が、放送の声色を真似て笑い転げている。

 顧問教師のもとで部活動を続ける生徒に限り、定時に校門を出なくてもよい。

 美術部員たちは、駐車場の脇にある雑草だらけの裏門から、いつも下校していた。

 ユウは、手でカチャン、カチャンと開け閉め出来る裏門が好きになったが、入部するまでその小さな門の存在に気づかずにいた自分には、アカンベーと言ってやりたい。

(アリス、こっちの門の側で遊べばよかったね)

「水野さん、お砂糖とミルクは?」

 可南子先輩のソプラノは、とてもきれいだ。

「あ。ありがとう、使います」

 体中の血液が凍りついたような記憶は、もうなるべく眠らせたかった。

「ねぇ、手ェ出さないとクッキーなくなっちゃうぜ」

「はぁい」

 ジロー先輩のおみやげのそのクッキーも、裏門をくぐって美術室にやって来たのだ。

 ジロー先輩は、美術部OBで、すでに大学生であるにもかかわらず、春野先生の気さくな笑顔と黙認のもと、毎日のように自転車で裏門から美術室に通ってきて部員同様に絵を描いている。

 治外法権の人、ジロー先輩。

 制服の群れに混じって、ヨレヨレのジーパン、絵の具だらけのシワクチャ白衣(大学の実験室の白衣を流用しているらしい)で口笛まじりに絵筆を運ぶ人。

 きっと、とても絵が好きなんだわ、とユウは思う。この美術室が好きなのかも。

 治外法権のアルファベットチョコ。

 治外法権のムーンライトクッキー。

 夕飯の時刻に近いせいもあり、とてもおいしく感じられる。

 自動ロックのいかめしい正門しかなかったら、ジロー先輩はきっと、今みたいに毎日自転車で行き来することは出来ないだろう。

 治外法権、アリスもそう。野良猫だった。

(私、正門しか見ていなかった。

 自分にとって必要な門がどこにあるのか、全然気づかずにいた)

 ユウは、角砂糖をコーヒーに落としながら、かすかに首を振った。下校時刻の放送のたびに一々ギクッとしていたら、身がもたない。

 第一、ユウをおびえさせるものなど、この美術室には何もなかった。アットホームで、居心地が良くて。

「水野さんもずい分、ここに慣れてきた感じだね。部員として定着してくれそうでうれしいよ」

 古屋先輩が、そんなことを言っている。

「わかんないわよ。人の絵に落書きするような悪い上級生のいる部は、きらわれちゃうかもしれない」

と、可南子先輩。

「教育的指導だってば。

 いやぁ、オレだって結構、気をつかってるのよ。

 最初の頃、下向いて絵筆の先ばっかり見ていて、すっごくおとなしかったからさ。

 何か声をかけねばと」

 ジロー先輩がおどけてヒュウと口笛を吹いた。可南子先輩が笑った。

「チャーリーったら、やさしいのね」

「すみません。私って……人見知りするんです」

 ユウがあわてて口をはさむと、古屋先輩はサラッと笑って言った。

「いいの、いいの人見知りでも。

 絵が好きな人が美術部にいてくれるのがうれしいんだから」

(絵が好きな人? 私が? )

 ユウが美術部に入った直接の動機は、絵ではなかったはずだ。

 田渕 友和。タブチ トモカズ。

 トモ君、と美術部員達に呼ばれている男の子のことを、少しでも知りたくてユウも同じ美術部に入部したのだ。律子がアドレス帳に書きつけたのと同じ名前を持つ人は、学校中でトモ君ひとりきりだったから。

 でもユウは、古屋先輩が自分のことを絵が好きな人、と呼んでくれたことが、くすぐったかった。

「そうそう、そのはにかんだ笑顔がいいんだよなあ」

「もうチャーリーったら、なんて軽い奴。調子良すぎるわよ」

 可南子先輩が古屋先輩をこづいて、二人はふざけ半分のケンカを始めた。

(本当に、私は絵を描くことが好きなのかもしれない)

 少なくとも、物理や数学の勉強よりはるかに好きだ、手応えがあるもの、とユウは自分自身に答えた。

(私、絵を描くことが好き)

 そう思うと、自分がほんの少し強くなれるようだった。ユウは、今、街の雑踏の中で立ちつくす「いてもいなくても誰も気にとめない子」ではない。

 行き先のわからない電車に乗って涙をこぼす迷子でもない。誰かにつかまえられるのをこわがっている逃亡者でもなかった。

 なぜなら、ユウは今、ユウ自身をつかまえようとしている。

「静物画って、デッサンの勉強になるけど、真面目すぎて退屈でしょ」

 おだやかな声に物思いから覚めると、黒ブチ眼鏡のジロー先輩と視線が合った。

「いいえ、退屈だなんて。悪戦苦闘です」

「油彩は初めてなんだもんね。でも、水野さんって、真面目だよ。君達もね、差し入れのお菓子ばっかり楽しみにしてないで、少しは見習って絵、描きなさい」

 ハァイ、と返事をしながら一年生コンビがケラケラ笑っている。

「真面目に描いていれば技術は段々身についてくるからね、あとは自分の描きたい世界を見つければいい」

(世界を見つける?)

 ジロー先輩がこういう言葉を口にすると、ふしぎな説得力がある。

 写実的なデッサンと色使いで仕上げかかっていた風景画を、ある日いきなり一面の青で塗りつぶして、そのタッチが奇妙に力強いものだから

「うーん、オモシロイねぇ」

と、春野先生が目を点にしてほめていた。

 それがジロー先輩の世界、ということだろうか。

「静物を描き終わったらね、次は風景画とか幻想画とか、色々挑戦してみるといいよ」

「はい、そうします」

 ユウがうなずくと、ジロー先輩の黒ブチ眼鏡がいたずらっぽく光った。

「ほらね、やっぱり水野さんは真面目だ」

 ヌーボーとか、ヒョウヒョウという形容詞がぴったりの外見風貌だけれど、言葉つきも目も温かい。面白い大学生、面白い人だった。

(入部して良かった……色々な人と会えるもの)

「春になったら」

 窓ガラスの中で暮れていくポプラ並木のシルエットを見つめながら、ユウはつぶやいた。

「若葉でいっぱいのポプラ並木を、私、描いてみたいんです」

 ユウの瞳に、一面のアクリル・ブルーの空が映り、金色の日光を散らしながら風にそよぐ若葉のこずえが見えてきた。

 その柔らかな光と風の中、こずえを揺らしてたわむれている銀色の影。

(アリス……)

 銀色の影はこずえを段々高くのぼり、やがて明るい空へとふんわり駆け出した。

 伸びやかに軽やかに、銀色のアリスは空で遊び、やがて丸くなって眠ると一片の白い雲になって流れていった。

(春になったら、キャンバスとイーゼルを校庭に持ち出して、ポプラの根元で絵を描こう。きっと)

 

Dear.律子様

 お元気ですか。

 先日のお手紙によると、車椅子を降りて松 葉杖の練習を始められたんですね。

 ほんとに良かった。早く治って一緒にお散歩出来るといいな。律子さんが普通の学校生活に戻れる日の来ることを、私、いつも天国のアリスにお祈りしています。

 あのね、美術部の古屋先輩、ほらチャーリーってあだ名の人です、心臓が小さい頃から弱くて時々入院もして、高校入学も一年遅れたんですって。だから本当はジロー先輩と同じ年なの。でも、いつも明るくて元気そうで、とても病気で苦しんだ人には見えないんです。

 律子さんも高校に入ったら、きっと古屋先輩みたいになれるよ。優しくて、皆を楽しい気持ちにさせてしまうお姉さんみたいな存在に……ね。だから、一日でも早く、すっかり元気になって。

 トモ君は最近美術部には夕方六時を過ぎてからしか姿を見せません。かけもちの演劇部の方で、クリスマス公演の準備に追われているそうです。なんでも演劇部の部長さんがトモ君の親友で、エキストラを頼まれたトモ君は、気が良いものだから断れなかったんですって。サンタクロースの役だとか。可南子先輩が、お茶を飲みながらそう教えてくれました。

 トモ君って、山岳部にも所属しているの。

 春から秋にかけては、もっぱら山男なんだって。それでね、自分で組み立てた折りたたみ式自転車を愛用していて、いつもリュックと一緒にしょっているんだって。

 芸術少年だけではない、いろんな顔を持っていてびっくりさせられます。そんな所が、律子さんの想い人たるゆえんかな、そうかな、どうでしょう?

 美術室の片すみに、トモ君が描きかけた夕焼けの山々がイーゼルにたてかけられたまま、トモ君の筆を待っています。無器用だけど意外に神経が細かくて、あったか味のある、そんな絵です。オレンジ色の空と山とは、人を安易には寄せつけない自然そのままの姿のはずなのに、トモ君のキャンバスの中では人待ち顔にともった明かりの色をして輝いているんです。不思議ね。

 不思議にあたたかいといえば……この美術室にいると、今まで気づかなかった色々な人の姿がとても身近に見えてくるの。

 例えば昼休みになると必ずフルートを吹きに校舎裏の芝生にやって来る森野君。美術室のガラス窓越しに、丁度アポロンの石膏像の脇あたりに立って「アルルの女」の練習をしている姿が、毎日見られます。

 彼はブラスバンド部の副部長さん。私のクラスメイトですが、教室では居眠りの多い人だけに、フルートに向かう森野君の真剣な横顔は意外でもあり(ごつごつして体も大きくて第一印象は空手部って感じなの)なんだかほのぼのしていいなぁと思います。演劇部だけでなくブラスバンド部も、クリスマス公演が近いんですね。

 そして、もうひとつ不思議。

 私、前より強くなったの。昨夜、父にしかられました。例によって期末試験の成績のことでです。物理が追試だったから。

 「こんな点数では先が思いやられる」って、父の言葉はいつもと同じ。

 でも。でも私ね、いつもみたいに傷つかずにすんだの。それどころか、心の中から思いがけない元気な声が聞こえてきてびっくりしたわ。

 (先? 先っていつ?

  大丈夫。「今」がこんなに楽しいんだもの。

 「今」を大切にしていけば、きっといい「先」も見つかるから)

 授業のあいま、試験のあいまをぬって一生懸命好きな事をしている人達と交わっているうちに、成績だけが全てじゃないって、心から思うようになりました。

 もうすぐクリスマス。冬休みが近づいてきました。律子さんさえよろしければ、一度お見舞いにうかがいたいのですが。

 それからね、十二月二十四日はトモ君の本番です。体育館のステージが舞台なの。

 松葉杖の練習を兼ねて、観にいらっしゃいませんか。校内も案内致します。

 律子さんが疲れすぎないように、困らないように、私、一生懸命お手伝いしますから。ね?

 ではまた。お返事、待ってます。

                 ユウ

 

 

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(4)305号室からの返信

 

 水野ユウ様

 お手紙ありがとう。

 とても残念なのですが、せっかくのお誘いを、お断りしなければなりません。先日の検査の結果が悪くて、再入院することになったからです。

 今年のクリスマスは病室でなく自宅で迎えられると喜んでいた矢先だけに、また病院へ逆戻りするのかと思うとがっかりです。

 ことによると、来年早々に胸の手術を受けるかもしれません。

 一体、私の体はどうなっているのでしょう。

 今年の夏に脚の手術をしたばかりなのに。

 やっと松葉杖で歩けるようになったのに。

 「えーっ。また手術? どうして?

 いや。もうこれ以上、治療も入院もいや。

 だって、脚を手術すれば治るって言ったじゃない!」

 思わず主治医の先生に喰ってかかってしまい、後で一人になってからワンワン泣きました。

 泣いたってどうにもならないけど、でも、悔しくて悲しくて。

 体をすっかり治さなければ、普通の学校生活は夢のまま。だから、やっぱり私は病気と闘い続けるしかないって、さんざん泣いたあとにやっと、そう気を取り直すことが出来ました。

 私が落ち込んでいると、両親もつらそうです。ユウちゃんにも、こんな事書いて、心配かけるばっかりだね。

 でも、律子は強い。今までだってがんばってこれたんだから、きっとこれからだってがんばれる……はずよね。

 グチを書くつもりじゃなかったけど、グチっぽくなってたらごめんなさい。

 ユウちゃんからのお手紙は、いつもとっても楽しみです。

 だから、またお手紙下さいね。

                 律子

 

 (律子さんがワンワン泣く……)

 水色の便せんを読み返しながら、ユウは溜め息をついた。

 この手紙を受け取るまでのユウは、律子の病気をもっと軽いものだと考えていた。

 窓の外には夕闇。ストーブの透明な青い炎が、美術室をあたためてくれている。

 一年生部員が暗幕を兼ねた厚いカーテンを閉めてまわると、部屋はくすんだクリーム色に包まれ、外の木枯らしの音も弱まった。

 カーテンには、色紙を切り抜いた金銀の星がセロテープで幾つもはってあった。

 美術室にいても絵を描く姿を見せたことのない一年生達が、街のクリスマス・ディスプレイに刺激されたのか、例によってキャッキャとたわむれながら飾りつけた星だった。

 オリオン座。白鳥座。その他、雪ダルマ座やペロペロキャンディ座、でたらめな星座たち。

「ったく、してもしなくてもいい事になると君達は熱心なんだから」

 そう言いながら、ハサミの先から銀色のトナカイを誕生させようと躍起になっていたのは古屋先輩。受験参考書そっちのけで。

「チャーリー、大学落ちるわよ」

「あはは、それじゃ角が大きすぎますよ先輩」

 可南子先輩の氷の一言にも、一年生のクスクス笑いにもめげず生まれたトナカイが、波うつカーテンの上、金銀の星の原を駆けている。

 教卓の上には、ジロー先輩が買って来たミニ・ツリーがちょこんと置いてあった。

(松葉杖で歩けるようになったって、喜んでいたのに。これからどんどん良くなっていくんだって私も思っていたのに)

 砂糖入りのコーヒーが、今日はいつもほど甘く感じられなかった。

「クリスマスコンパのケーキ、どうします?」

「春野先生、奮発してくれないかなぁ」

「良かったら、私が焼いて来てあげる」

「えーっ、可南子先輩ケーキ焼けるんですかぁ」

「わぁい楽しみねー」

「危険だ。危険すぎる」

「ちょっとチャーリー、ケンカ売る気?」

 和気あいあいの会話が、今日は少し遠のいて聞こえ、ユウは何度目かの溜め息をついた。

 キャンバスに向かっても筆は進まず、手にした水色の便せんへと瞳が落ちるばかり。

「水野さん、それって、ひょっとしてラブレター?」

 可南子先輩が心配してのぞき込んできたほど。

「いいえ、違います」

 すぐさまユウは否定したけれど、古屋先輩が耳ざとく聞きつけ大声を出した。

「なになに。沈んでいると思ったら、恋の悩み?」

いやに力のこもった声色で、

「経験者にまかせなさい」

「違いますってば。友達が病気なんです」

「そうよ。何馬鹿な事、言ってんのよ」

 いつのまにかユウの手にしていた便せんの文面を読み取ったらしく、可南子先輩がユウの肩に手を置いた。

「ごめんね、私、読んじゃった」

「それはかまいませんけれども……」

 ユウは口ごもった。

 人に読まれたくない手紙ならば、わざわざ美術室に持ち込んだりしない。

 ユウは、この手紙を読んで欲しくてここに持って来たのだった。トモ君に。

 律子の言葉を受けとめて、トモ君が落ち込む彼女への励ましの手紙を書いてくれたら。

 きっとそれ以上の律子への励ましはないだろう。そのきっかけをなんとかして作りたい、と昨夜ベッドの中でユウは考えたのだった。

「重い内容ね」

 可南子先輩が溜め息まじりに言った。

「ええ、私、どう返事を書いたらいいのかわからなくて」

「そうねぇ」

「友達だったら、明るく励ましてあげるより他ないんじゃないかな。この子と一緒に水野さんまで落ち込んだら救いようがない」

 日頃に似ずきっぱりと、古屋先輩がユウの目を見て言った。

「あっわるい。オレも読んじゃった」

 本当に、明るく励ますより他に出来ることはない。ユウはこっくりうなずいた。

 だからこそ、トモ君の力を借りたかった。

(わかってくれるかしら)

 ユウはまだ、トモ君と直接に親しく話したことがなかった。

 忙しいトモ君は帰りぎわに美術室に顔を出すだけだったし、律子の片想いの代役を演じるかのごとく、ユウはトモ君の一挙一動をこっそり見つめ続けるばかりだったから。

(今日は、私からトモ君に話しかけなくっちゃ)

 古屋先輩や可南子先輩は、ユウがぽつんとキャンバスに向かっていた時、親しく声をかけてくれた。けれど向こうから声をかけてくれるのを待っているのではなく、時には自分から声をかける必要もあるのだと、今、ユウは自分に言い聞かせていた。

(なんだか恥ずかしいなぁ)

 律子の想いが乗り移ったように、トモ君を待つユウの胸は、そわそわと落ち着かなかった。

(勝手に手紙をトモ君に見せたりして、律子さんはいやがるかもしれない。

 ペンフレンドとして私が彼女への励ましの手紙を書けば、それで十分なのかも。トモ君を引っ張りこまなくても)

 昨夜眠らずに考えた最良の方法も、段々気遅れに負けそうになってくる。

「もう六時半を過ぎたなぁ。今日は風が強くて寒そうだし、そろそろ帰らないか」

「でもチャーリー、今日はまだトモ君が来てないわよ」

「夕方ロータリー通りかかったら、あいつ演劇部の連中と立て看板、立ててたぜ。

『スノー・ファンタジィ』ってペンキの文字がよく乾いてなくて垂れちゃってさ、服汚してアーアとか言ってた。

 この寒空に元気だなって声かけたら、『先輩、観に来て下さいよ。』だって。今日は忙しいんじゃないの」

(なあんだ、今日は来ないんだ)

 がっかりすると同時に、かすかにほっとした。ユウは、水色の便せんを封筒に戻し、カバンの教科書のすきまにしまい込んだ。

 古屋先輩がストーブを消し、一年生コンビがコーヒーカップを筆洗い用の流しに運んだ。

 ユウも一緒にカップをスポンジで洗いながら

(明日話そう)

と、心に繰り返した。

 指先の水が痛いくらい冷たい。パッと掌を振って、冷たいしずくを払い落とした。

「あーっひでーっ。ストーブもコーヒーも、オレの求めてきたぬくもりは、すでに失われたあとだったぁ」

 突然ドアを開けて、トモ君が飛び込んで来た。

「お前、セリフが芝居がかってきたぞ」

 古屋先輩が笑って迎えた。

「発声練習、発声練習!」

 トモ君は、風の精みたいに息をはずませて笑い返した。ほほに白いペンキのひげをつけていた。

 

 二十分後。バス停の側の小さな喫茶店のテーブルに、ユウ達は座っていた。

 学校帰りのお茶。制服のままでおしゃべりする高校生。よくある光景だけれど、ユウは今までそういう道草をしたことがなかった。

 小さな校則違反。

 トモ君が、せっかく美術部に顔を出しに来たのにお茶も飲まずには帰れない、と断固主張したためだ。

「オレ、演劇部の連中の誘いを断ってきたんですよ。奴ら今ごろケンタッキーかなぁ。

 ね、オレ達もどこか行きましょうよ、熱いコーヒーが飲みたいよぉ」

 結局、美術室のメンバー皆がトモ君について来た。

 ジングルベール、ジングルベールとトモ君はごきげんで歌いながら、今、湯気の立つカップのへりをスプーンで鳴らしている。

 木のテーブル、木目調の壁、窓際を飾るグリーン・インテリア。小ぎれいな店内は、ただ人が座ってお茶を飲み語らうためだけのシンプルな空間。

 親しい人達と一緒に過ごすためだけに、わざわざ足を運んで来た、軽やかな特別さ。楽しげなのはトモ君だけではない、古屋先輩も可南子先輩も一年生達も。

 床の上では大きなツリーが赤や青の豆電球をともしたり消したりして、クリスマスの予感を盛り上げていた。

 ユウだって、楽しい。

 けれど、ユウのカバンの中の水色の手紙は、ポツンと取り残された律子の溜め息が結晶したように寂しい。触れれば壊れる雪の結晶みたいに、すぐ溶けて涙に変わってしまいそうな文面だ。

(トモ君に伝えなくては)

 ふと見ると、一年生コンビが珍しく無言で下を向いている。オレンジジュースのストローの袋をこよりにして、玉結びのこぶを幾つも幾つも連ねているのだ。その手作業に一心になるあまりジュースに口もつけていない。

「二人してさっきからどうしたのさ」

 古屋先輩も気になったらしい。

「あーぁ、ちぎれちゃった。九つ目までしか結べなかった」

「先輩、知らないんですかぁ。ストローの袋でこうして結びこぶを十個作ることが出来ると、好きな人に想いが通じるっていうおまじない」

「それホント?あたしもやってみようかな」

と、可南子先輩が微笑んだ。

「なんと、おヌシら、好きな男がいるのかぁ。

 経験者にまかせなさい」

「もう、馬鹿にしないで下さい。チャーリー先輩にまかせたら、せっかくの恋もただのジョークに……あーあ、ちぎれちゃった」

 溜め息をついて切れたこよりを指先でもて遊ぶ一年生コンビの仕草は、どうやらいつもの二人一緒のコントとは別物らしかった。

「なんだ、本気なの」

と、古屋先輩が間抜けな声でつぶやくと、

「ただのおまじなーい」

という明るい即答に、

「全然うまく結べなくって……」

と、ほおづえをつきながらの独り言が重なった。

「ふうん。色々あるよなぁ」

 何が色々なのか、古屋先輩は妙に納得顔で

「オレもおまじないしようっと」

と、ストローの袋を手に取った。

 可南子先輩が顔をあげて

「けっこう難しいわよ。紙が弱くて、神経使う」

「なんだよ、お前もおまじないの相手があるのか?」

「デリケートな問題、デリケートな」

 可南子先輩は意味深長にフフッと笑った。

 誰が好きとも言わず、ただ想いびとのあることだけをこっそり白状しあう。

 〃おまじない〃という、大真面目なたわむれ事。

 普段は軽口をたたいていても、心の奥に秘めた言葉はなかなか表に出てこないゆえの、小さな遊び。

(引っ込み思案なのは私だけじゃないみたい。

 片想いしているのも律子さんだけでは……)

 ふとテーブルの向こう側のトモ君と、目が合った。

「トモ君は、おまじないしないの?」

「オレ? だってホットコーヒー頼んじゃったもん、ストロー付いて来なかった」

 トモ君は遊びにはぐれたいたずらっ子のような残念そうな声で言い、ニコッと笑った。

「手先が器用じゃないから、オレが挑戦してもうまくいかないだろうな」

 くったくのない目。

(トモ君には誰か好きな人、いるのかしら?)

 ユウの懸念をよそに、トモ君は愉快そうに話しかけてきた。

「水野さんもミルクティー、ホットで頼んだんだね」

「うん」

 いつも何か面白い事を見つけようとしているような、いきいきした表情の元気少年。

 闘病中の律子がトモ君に惹かれ続けている理由が、なんとなくわかる。

(トモ君って、自分の元気でまわりまで元気にしちゃうタイプ。ね、律子さん?)

 静かな意志を内に秘めた律子の、白い顔が思い起こされた。

(ユウ、話しかけるなら今。

 ちょっとの勇気を持つだけ。

 律子さんにペンフレンドの申し出をした時みたいに、素直に正直になる勇気)

 律子のために、自分自身の内から湧き出してくる想いのために、必要な事を始めよう。

 そんな気持ちがユウのためらいを洗い流した。トモ君の瞳は、なんのかげりもこだわりもなくユウに向かって開かれていた。

 こんな目をしているトモ君だから、きっと聞いてくれる……

「あのね、私のペンフレンドでトモ君と中学校の時に同級生だったっていう人がいるの。

 天沢律子さんっていう名前、おぼえているかしら」

 ユウの唇から、言葉がゆっくりとこぼれ出した。

 昨夜ベッドの中で考え考えした言葉たちが、長いリハーサルを終え本番へ向かっていく新人俳優の足どりのように、さりげない緊張と確実さとあぶなっかしさとをないまぜて、一言一言積み重なっていく。

 店内に流れるユーミンの歌声。

 〃恋人はサンタクロース

  背の高いサンタクロース〃

 踊るようにはなやいだフレーズが、聞くとはなしに聞く耳にいつまでも残った。

 

 Dear.ユウちゃん!

 先日はびっくりしました。突然のお見舞い、どうも有り難う。思いがけず楽しいクリスマスを、病室で過ごすことが出来て夢を見ているみたいでした。

 いきなりサンタが病室へ入って来た時の私の驚きを想像して下さい。しかも、そのサンタさんが田渕君だとわかった時の!

 扉の陰からひょっこり顔をのぞかせたユウちゃんの、少し心配そうな笑顔……いたずらが首尾よくいったかどうか確かめようと私を見つめた瞬間の、あの笑顔が今も思い出されます。

 お見舞いに来て下さるという連絡を頂き、楽しみに待っていましたが、ユウちゃんが田渕君を誘っているなんて全然知らなかったものだから、彼に

「メリークリスマス!」

と言われても、しばらくは声が出ませんでした。ほんとよ。

 無防備状態に起こった大ハプニング。

 悪い人達ですってば、病人をおどかして。

 でも事前に知らせてもらっていたら、きっと私は恥ずかしさに負けて

「来て欲しくない」

って、突っぱねたことでしょう。

 病気でさえない顔色や、ボーッと一人でベッドにいるのに慣れて気のきいたおしゃべりも出来そうにない自分の性格や、そんな事を一つ一つ数えあげて、田渕君に会うのをしりごみしたでしょう。なのに目の前に現れた田渕君は、気さくで飾り気なくて、とってもなつかしそうに話しかけてくれました。

「がんばれよ」

って、彼に励ましてもらえただけで最高のクリスマスプレゼント。

 その上、手作りケーキ(可南子先輩という方にお礼の言葉を伝えて下さい)の差し入れまで頂いて……

 クラッカーを鳴らして、ローソクの炎を吹き消して、ちょっとしたパーティーでしたね。

 パン!ってクラッカーの音に看護婦さんがびっくりして飛んできて、サンタクロースの姿に二度びっくり。あの時の看護婦さんの顔のおかしかったことといったら。

「病室は遊び場じゃないのよ」

ってしかる声も、白ヒゲサンタの神妙な顔つきに思わず半分笑ってしまっていたから全然こわくなかったわ。病室で一人で過ごす午後はとっても長いのに、あの日ばかりは時間が飛ぶように過ぎました。

 美術部のこと、田渕君の出演した舞台のこと。いつもユウちゃんからのお手紙で紹介してもらっていたから、田渕君との話題にも困らなかったし、遠くへだたっているはずなのに身近な出来事を話しているみたいでうれしかった。

 次には、描きかけの油絵(ユウちゃんの言ってた夕焼けの山の絵ですね)を完成させてお見舞いに持って来るって、田渕君は約束してくれましたっけ。

 本当に是非また来てね。

 年が明けると、胸の手術を受けねばなりません。また体にメスが入って傷が増えるのかと思うとユーウツですが、ユウちゃんや田渕君の顔を思い出すだけで少し元気になれます。

 手術を乗り越えて、来年こそ健康を取り戻さなくては。

 心配してくれるユウちゃんや田渕君、両親のためにも、つらいことも笑顔で吹き飛ばせるような……そんな自分になりたい。

                           305号室にて 律子

 

「つらいことも笑顔で吹き飛ばせるような……」

 水色の便せんを手にしたユウは、最後の行の言葉をなぞり、そっとつぶやいてみた。

 

 

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(5)雪の降る窓

 

 リ・リ・リ。セットしておいた時計のベルが鳴りだした。午後一時三十分。

 トモ君との約束は、駅の改札口に二時。律子の病棟の面会時間は三時からだった。

 ユウは、幾何学の問題集を閉じてカタンとシャープペンシルを転がした。溜め息。

 冬休みの課題は、まだ山ほど残っていた。代数、英語、漢文、古文……

 けれども今日はそんな事忘れればいいとばかり、ユウは鏡に向かって微笑んでみせた。

「新しいセーター着ていこうかなっと」

 淡い色のリップクリームをぬって、胸には銀の三日月のペンダント。

(病院へ行くのに。デートに出かけるみたいにうきうきしているなんて。

 律子さんに失礼かしら。コラ、ユウ)

 今日はトモ君と一緒だ。

 ユウは、差し出した水色の便せんを読みおえたトモ君の、問いかけるような目が忘れられない。まいったなぁ、という顔をして

「それで、オレにどうしろと?」

「だから、トモ君から律子さんあてに、励ましの手紙を?」

「オレ、すげー筆不精なんだけどなぁ。いきなり書けって言われても」

 うつむくユウに、トモ君は腕組みをした。

「だからさ、手紙は苦手なんだ。直接会いに行って励ますってのはどうかな?」

 そうして

「『スノー・ファンタジィ』のサンタの衣装を着てってびっくりさせるってのは?」

と、目を輝かせた……

(トモ君ったら)

 ユウはクスッと笑った。

(思いついたらなんでもやってしまう。でも良かった。律子さんが喜んでくれて)

 今日も楽しいお見舞いになりますように。

 コートをはおりマフラーを巻きながら、ユウは鏡の中の自分に祈るような瞳を投げた。

 昨夜の父との口論は、気にしないことにしよう。通知表のシーズン、成績をとがめられるのはいつものこと。いつもと違ってユウがそれに逆らったから、親子ゲンカになった。

「お父さんの患者さんの中には、私と同じ年頃の人もいるでしょう。そういう人達を前にお父さんは、『早く治って、いい大学を目指して勉強しなさい』って願いながら、治療をする?」

「早く治って元気になりなさい、だ」

「だったら私の気持ちもわかって。

 成績が低迷してたって、元気に楽しくしていたいの。今の私には、美術部のために使う時間がとってもとっても大切」

「私はお前のために、親として忠告している。お前は私の患者ではなく、娘なのだから」

 将来に役立つように今、勉強しておくことが必要だ、と繰り返す父。そのけわしい岩山のような顔をしている父に、でもユウが伝えたかったことは、今のための今。

 将来のための今。今のための今。

 足もとからの食い違いはすぐに修正出来る見込みもなく、ユウの胸を寂しさがよぎった けれど、父に従って美術部を辞めるつもりにはなれなかった。どうしても、なれなかった。

 対立をおそれぬユウを見つけた戸惑いが、父の白髪のまじったまゆ毛の奥の眼光を、かすかに揺らしていたかもしれなかった。

 ユウは自分に言い聞かせる。

 長丁場の対立になりそうだから、小さなケンカの一語一句を今は気にしないこと。

 成績・親の言葉、必要以上に傷つかぬこと。

 他人の評価で自分をはかりにかけぬこと。

 それから……ユウは、まゆをひそめた。

 話の成り行きからふと父が示した、律子の病気に関する医者らしい興味と、思案顔に一瞬宿ったくもりは、なんだったろう。

(律子さんの病気って?)

 医者の父からみて難しいものなのだろうか。

 すっと冷静に硬くなった父の眼差しと口元とを思い返してみる。ユウは、払いのけられない不安を鏡の向こうの瞳に押し戻した。

 ひんやり静かなろうかの奥。

「行って来ます」

 書斎の壁の向こうに声をかけ、ユウは玄関を出た。

 

 雪が舞っている。明るく軽く光りながら、くるくるまわって落ちてくる。空のかけらひとひら、ふたひら。

 ユウは駅の近くの花屋に立ち寄った。

(律子さんには真っ白い花がよく似合うけれど。こんな雪の日に、病室の白い壁の中で咲くんだもの、白い花だけじゃ寂しすぎる)

 ピンクのスイートピーにかすみ草を混ぜて、小さな花束にしてもらった。スイートピーは、リボンを結んだ少女のような愛らしさ。手にすると、一足先の春の色がくすぐったい。

 改札口で待っていると、まもなく大きな四角い布包みをかかえたトモ君が現れた。荷物がかさばって傘もささない肩の上に、雪の結晶をいっぱい乗せて、髪にも小さな雫をつけて、

「よお」

と、白い息を吐いた。

「絵、仕上がったのね」

「なんとかなってホッとした。天沢に約束しちゃったからな。手術の前に渡すってさ」

 トモ君は布でくるんだキャンバスをバサバサはたいて雪を落とし、一流のくったくない笑顔を見せた。

「やっと絵の具が乾いて固まったと思ったら、今度は雪に濡らされてシャレになんねぇ」

 トモ君が約束を果たすために、この冬休みに入ってからずっと美術室に通っていたことを、ユウは知っている。ユウが顔を出すと、いつでも美術室にはキャンバスに向かうトモ君の姿があった。

「今日美術室に寄って、金属フレームつけて来たんだ。額つければ病室の壁に飾れるもんな。自分の絵だからなんだか照れるけど」

 いいよな、下手だってお見舞いだもん、大切なのは気持ちだよ気持ち……と、トモ君は半分ユウに同意を求めつつ、自分を元気づける口調でつぶやいた。

 あれれ、トモ君でも弱気になるのね、とユウが目を丸くすると

「だって、あいつが欲しいって楽しそうに言うからさ。でも、オレなんかの下手な絵見ると、がっかりするかなぁ」

 どこか甘えん坊な正義漢のガキ大将。トモ君は、昔そんな男の子だったかもしれない。

 我知らずひたむきにスーパーマンの役割を担ってしまう普通のひとクラーク・ケント。

 思えばスーパーマンの仕事は、人助けがメイン・テーマ。悪者と戦うのはごくたまに起きる、一大事件の時だけ。

(助けを求められるとついつい飛んで行ってしまう人の好さこそ、スーパーマンの真のパワー、長寿ヒーローの由縁かもしれない)

『スーパーマンは

 ヒューマン だから

 あったかい。』

 トモ君の横顔を見ながらふと浮かんだ文句。

 当たり前すぎて電車のポスターのコピーには使えそうもないけれど、ユウは気に入った。

「私、トモ君の絵って、オレンジ色の明かりみたいで好き。あったか味があって、きっと病室の壁も寂しくなくなる」

「わわ、まともにほめないでくれよ。照れるだろ」

 トモ君は言葉どおり、素直に照れた顔をした。なんだか一緒にいて楽しい人だ。

「律子さん、絶対喜んでくれるはず」

「そうかな」

(ああ、そうだ。トモ君は律子さんの想いびと)

 改札口を通り抜けるとき、そんなことを思い出し、ふいにユウの胸はしんと静まった。

 

 電車の窓ガラスにぶつかった雪が、雫になってしばらくふるえ、やがて風にはじかれて流れ伝っていく。いくひらも、いくひらも。

「雪、やまないね」

「この街にしては珍しくつもるかなぁ」

 トモ君は窓の外で白く渦巻いている雪まじりの風を、ずっと目で追いかけていた。

「大みそか元旦を雪山登山して過ごそうなんて人達は、今年は大変だろうな。寒さが厳しいし、山は荒れ模様だし」

 二人は、あまり混んでいない車両のシートに肩を並べて座っていた。

「トモ君は、雪山に登ったことがあるの」

「うん、親父と一度。

 山で飲む雪見酒って最高なんだぜ。氷のかわりに雪をコップにすくうんだ」

「なんだかロマンチック」

「そ、男のロマンなんちゃって」

「お父さんと仲が良くてうらやましいな」

 ユウがそっとつぶやいた言葉を、トモ君はハデに手を振って打ち消した。

「オレと親父? ケンカばっかりさ。

 ガンガンやり合ってるよ。成績のこととか将来のこととか、うるさくて仕方がない」

 そしてふと気付いたように、言い足した。

「だけど、うらやましいって、水野さんとこは仲良くないの?」

 忘れたかった昨日の父とのいさかいを不意討ちで思い出し、ユウは自分の顔がかげっていくのをかくせなかった。

「普段は父が仕事で忙しいから、あまり顔を合わせない。私すえっ子だし、影が薄いのかな。たまに話すことといえば、学校の成績についてなの。何かにつけて兄や姉と比較されるから、つい私の方から避けてしまう」

「そおゆう比較のされ方って、やだよなぁ。水野さんとこって、兄ちゃんT大で姉ちゃんO大だろ。すっげー優秀な家系だってうわさ聞いたことあるよ」

「父が医者で母はシステム・エンジニア。パリッとした人たちよ。それでね、私だけ異端者なの。劣性遺伝っていうのかな。なんでも普通以上には出来ない、普通が精一杯」

 トモ君と一緒のとき、こんな暗い顔をしたくはないのに。こんなこと言うつもりじゃなかったのに……ユウは唇をかんだ。

「そおゆうさげすんだ言い方も、オレやだな。

 自分に対して失礼だろ、それに精一杯であるところの『普通』に対しても失礼だ」

 あけっぴろげなトモ君らしい反論に、ふいにうっすら涙がにじみ出た。

 でもね、小さい頃からずっとそうだったんだもん。のどの奥で、幼い声がこだました。

「ま、確かに水野ユウちゃんは地味だし、どこにでもいそうな普通の子っぽいけどさ」

 トモ君はフォローのつもりか(だとしたら失敗している)とぼけて言いたい放題のセリフをユウに投げつけてきた。

「おとなしくて口数も少なくて自己主張が下手で、絵に描いたような目立たない子だけどさ」

 ふと、言い草とは裏腹な温かい調子をトモ君の声に感じて、ユウは目をあげた。

「成績優秀・容姿端麗なんていう後光まとわなきゃ生きてけない女の子よりもさ、なんの飾りもないシャイな子の方が心休まるっていう人も世の中にはいるんだろうし」

 ガタンゴトン揺れる電車の響きが、体をすっぽり包み込む優しいリズムを刻み始めた。

(アリスが死んだ翌朝、私、一人ででたらめな電車に乗ったっけ。私が消えても誰も気づいてくれないし、どこへ迷い出て行こうと誰にもつなぎとめてもらえない気がしてた。

 電車の中、一人でポロポロ泣いたっけ)

 あー違うんだ、オレの言いたいのは世の中の人のことじゃなくってさ、とトモ君は頭をくしゃくしゃかきむしった。

「たとえ世界中の人間が見向きもしてくれなくたって、水野ユウだけは水野ユウを好きでいてやらなくっちゃ駄目なんだ。

 そんな水野ユウのことわかってくれる人間が見つかるまでさ」

 そうしてトモ君は、なんだかガクッと疲れて、ユウが目を丸くして見つめると

「うまく言えねえよ。そんな涙浮かべた目で、オレを見るなよな。電車の中なんだし」

と、つぶやいた。そうしてドサッとビロードのシートにもたれ直し、ユウから車窓の雪の街へと視線を転じると、あとは黙り込んだ。

 そんなトモ君を、ユウはしばらくぼーっと見ていた。

(私のこと心配して、一生懸命話しかけてくれた。もう落ち込んでなんかいない、そんなふうに心配してもらえてうれしいんだって、トモ君に伝えなくちゃ)

 一度開いてしまった涙腺が、意志とは関係なく働き続けるのを、ユウはゴシゴシと手の甲で押さえつけた。声はなかなか出なかった。

「わかるの、トモ君の言いたいこと、なんとなく伝わってくる。私も多分おなじことが言いたくて、昨夜父とケンカしちゃった」

 涙で縮まっていたのどから声を押し流した。

「あのね、今、気がついたことがあるのよ」

 かすかな微笑みがユウのほほをよぎった。

「私ってば、小さい頃からずっと、いかに自分を大切に思わないようにするか訓練を続けてきたみたいなの。成績がさえないこととか引っ込み思案の性格とかを数え上げて、どこにいてもなんだか肩身がせまかった。

 今のままじゃ駄目なユウで、誰にも振り向いてもらえない、もっと良いユウにならなくてはいけないんだ、って。

 努力すれば手が届きそうな目標をかかげた『もっと良いユウ』に、いつも追いかけられている、そんな気持ちだった。

 見えない糸でがんじがらめになって……

『もっと良いユウ』に高みから操られるマリオネットになっていた」

 ユウは、掌に落としていた眼差しを上げた。

「でも、そういうのって疲れちゃう。

 糸を切りたいの。

 これからは、どうしたらこのままの自分を大切にすることが出来るようになるか、それを試していくつもり」

 トモ君がびっくりした瞳で自分を見ていることに気づき、ユウは不思議な気分になった。

(どこから言葉が出て来たの? こんなにあふれるように。自然に)

 トモ君は目をパチパチさせて、少し首をかしげた。考える仕草で前髪をはらいのけ、おもむろに

「そのままでいい」

と言った。

「涙ぐんだと思ったらすぐ笑って、いきなり超真面目な話にワープしちゃってキョトンとしてる。そういう子どもみたいな、少し突拍子もない水野ユウのままでいればいい」

 またしばらく考えてから、

「糸なんかついてない。とっくに切れてるさ」

と力のある声で断言した。

「オレに手紙を差し出した水野ユウの手にはマリオネットの糸なんかついてなかった。

 美術室にやって来る水野ユウの足だって、操り人形の足なんかじゃなかった」

 そうして、なつかしくなるような笑顔で

「そのままのユウちゃんでいてくれよ、な」

と、トモ君はユウの肩をぽんぽんたたいた。

(不思議にあたたかな夕焼けの色。マントをまとったスーパーマン。

 神様、私、糸の切れかけた操り人形なんかじゃありませんでした。

 最初から最後まで、ずっと裸の手足のままの、生きてるユウだけしかいないんですね)

「オレさ、いつか映画監督になりたいんだ。

 それで大学も映像の勉強が出来るところに進みたいんだけど、親父が大反対でこの間の進路相談以来もめてるんだ」

 もう幾つの駅を通過したのか、雪は止む気配も見えない。排気ガスに汚れているはずの見知らぬ街が、数知れぬ純白の結晶に包まれ、真新しいキャンバスのように輝いていた。

「つい最近も夕飯のときに、親父の奴『お前には才能がない。』なんて言ってくれてさ。

 オレ思わずテーブルにハシ叩きつけて二階の自分の部屋に駆けあがってさ、窓あけて網戸ぶち倒してベランダに出て悔し泣きしたよ。

 親父から見ればオレなんて、夢と現実の区別もつかないヒヨッコかもしれない。

 でもオレ……親父みたいな会社人間になりたくないんだよ、絶対に」

 ユウは、びっくりしてトモ君を見た。

 トモ君の声には、いつもと違う切実な響きがあった。

 凍るような夜の外気に身をさらして悔し泣きする姿を、普段のトモ君からは想像もできない。けれどそういう場面を引き受けているからこそ、エネルギッシュなトモ君が存在しているのかもしれなかった。

「がんばろうよ、ユウちゃん。うるさい大人なんかに負けないで、オレはオレ、ユウちゃんはユウちゃん自身になるんだ。そうして、金や学歴持ってる奴が威張ってて子どもは小さいうちから偏差値競争、なんていう息苦しい世の中に風穴あけて、めいっぱい元気に生きてくような、新しい大人になるんだ」

 なっ、と明るく同意を求めるトモ君に、うん、とユウはうなずき返した。クラーク・ケントには、いつまでもスーパーマンを続けて欲しかった。励ましを必要としているのなら、励ましたいと思った。

「オレって、宿題はすっぽかすし追試は受け放題だし、部をいくつもかけ持った上にサンタの役まで引き受けたりしてさ。調子のいいノー天気野郎に見えるだろう。でも、そうしないと駄目なんだ。元気が消えちゃって。

 水野ユウの言葉と重なるよ。きっとオレも、自分を大切にする方法、探してるんだ」

 ふと高揚から覚め、トモ君は照れくさそうに笑った。

 とても……とても極上の笑顔だった。

 

 ひとひら、またひとひら。

 雪の結晶が、電車のガラス窓にぶつかっては、涙のようにふるえるしずくに変わっていく。風にひきちぎられて流れ伝い、はるか後方に吹き飛ばされていく。

 それでもまた、ひとひら、ふたひら。

(それぞれが、違った悩みを抱えて戦っている。

 トモ君も、律子さんも、そして私も)

 律子と初めて会った日、ユウが乗ったのは行き先すらわからない電車だった。

 けれど今は、なんて違っているのだろう。

 ユウの隣にはトモ君がいて、行き先は律子の待つ病室。

 ガラス窓にぶつかる雪。

 走っていく電車。

 トモ君。

 すべてがかけがえのない瞬間の連続となり、ユウの体を途方もないいとおしさでいっぱいに満たした。

(律子さんの手紙には、なんて書いてあったっけ。

 そう、たしか。

『つらいことも笑顔で吹き飛ばせるような自分になりたい』

 と……)

 数えきれない小さな結晶が、遠い空からどんどん、どんどん降りてきて、街を純白のきらめきでおおっていく。

 まるで、

「いつでも頭上にはきらきら透明な光をたたえた世界が、本当にあるんだよ。

 ほら、こんな純白のね」

という空からの手紙のように。

(私も、同じ願い。

 行き先は、律子さんの笑顔。

 行き先は、私自身の笑顔。

 私も、つらいことを笑顔で吹き飛ばせるユウ……になりたい)

 流れる風景がゆるやかに速度を落とし、電車は駅に滑り込んだ。吹きさらしのプラットホームに立つと、病院の建物が遠く白くけぶっていた。

(あの雪の降る窓のどれかひとつに律子さんがいて、私とトモ君とを待っている)

 スイートピーの花束を片手に、もう片手で大きなキャンバスを抱いたトモ君に傘をさしかけたユウは、足早に白い道を踏みしめた。

 

「どうしたの、急に黙りこんじゃったね」

「え、ええ。風が強いから」

 パサッ、パサッと雪の落ちる音が足元から湧いてくる。

 雪が道に降りかかる時、淡い青い影がすうっと走り、その影が雪と出会ってひとつになって白い路面に吸い込まれていく。

(ひとかけらの雪さえ、小さな重さを持ち、影を落としている)

 遠い空からそれぞれの白さをになって、旅して来るもの達。

 そのひとかけらずつの重さゆえ影ゆえに、ユウには一層いとおしかった。

(どの雪が一番先に地面に着くか、どの雪が一番優れた結晶か、そんなこと一体誰が雪に問いかけるかしら)

 純白にすら宿る影。

 律子の片想いを知りながらトモ君と肩を並べて歩く自分に、なんだか切ない影を感じたけれど、今はその悲しい気持ちさえ水晶細工の宝物のように大切で、大切にしたくてたまらないユウだった。

                                    

 

 

            (終)

 

「結晶作用」(1999/11/1 発行 同人誌 掲載)

 

 

 

 

 

(2015/6/17 加筆)

  

©Tomoe Nakamura 1999

 

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